「問題
蝉が無意味に鳴いている。
本当だ。蝉が無意味に鳴いている。
ミーンミーンミーンミーンミィー
Mean mean mean mean meaning!
尻上がり寿の「真夜中の弥次さん喜多さん」の舞台版より
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
蝉が無意味に鳴いている。
本当だ。蝉が無意味に鳴いている。
ミーンミーンミーンミーンミィー
Mean mean mean mean meaning!
尻上がり寿の「真夜中の弥次さん喜多さん」の舞台版より
ゴルギアス
「無について、もしくは自然について」
論題の第1「何もない」
もし何かがあるとすれば、それは存在があるか、無があるか、あるいは存在がありまた無もあるかのいずれかである。
しかるに、存在がないことは、これから議論が証明するところであり、また無があるのでもないことも、議論の確証するところであり、また存在も無も双方ともにあるというのでもないこと、これも議論の知らしめる通りである。
したがって何かがあるということはない。
さて無はありはしない。なぜなら、もし無があるとすれば、あると同時にありもしないということになるからである。無とはありはしないものだと考えられるかぎりにおいては、それはありはしないが、無があるならばそのかぎりでは、今度はあるということになる。だが、何かがありかつありはしないということは、どうみても不可思議である。
さらにもうひとつ別の議論として、もし無があるならば、存在はありはしないことになろう。存在と無とは正反対なのであって、もしあるが無に帰属するなら、あらぬが存在に帰属することになるからである。だが、存在がありもしないということはない。そうだとすれば、無があるということもないのである。
また存在があるのでもない。というのは、もし存在があるならば、それは永遠のものか、あるいは生成したものか、あるいは永遠であってしかも生成したものであるかである。だがそれは永遠のものでもなければ、生成したものでもなく、またその両者でもないことは以下でわれわれの示すとおりである。したがって、存在はありはしない。
さて、もし存在が永遠のものであるとするなら(まずここから出発しなければならない)、何か始まりをもつということはない。なぜなら、生成するものにはすべて何らかの始まりがあるが、永遠はもともと不生であるのだから始まりはなかったのである。しかるに始まりがなければ、それは無限である。無限であれば、それはどこにもない。なぜなら、それがどこかにあるとすれば、それがあるところの場所そのものはそれ自身とは別になり、そのようにして存在は何かに包囲されることになって、もはや無限ではなくなるからだ。実際、包囲するものは包囲されるものよりも大きく、一方、無限よりも大きなものはないのだから、したがって無限がどこかにあるということはない。またそれがそれ自身に包囲されているということもない。というのは、その場合には同じものが包囲するものと包囲されるものになり、存在が場所と物(というのは、包囲するものが場所であり、包囲されるものが物だからである)という二つになってしまう。だがこれは摩訶不思議である。とすれば、存在がそれ自身に包囲されているということもない。
こうして存在は、もしそれが永遠ならば無限であり、無限であればどこにもなく、どこにもないのならば、それはないのである。したがって、もし存在が永遠であれば、それはそもそも存在ではない。
しかしまた存在が生成したものであることも不可能である。というのは、もし生成したのであれば、存在から生じたか無から生じたかのいずれかである。しかし、存在から生じたのではない。なぜなら、存在からであるならば、生じたのではなく、もとからあるのだからだ。また無から生じたのでもない。なぜなら、無は何かを生み出すことができないからで、それは生み出すことのできるものは必ず何らかの存在性をそなえていなければならないからである。してみると、存在は生成したものでもない。
また同様に、その両者、永遠であって同時にまた生成したもの、でもない。というのは、それらは相互に他を破壊する両立不可能な関係にあり、もし存在が永遠ならば、生成したものではなく、また生成したのならば、永遠でもない。こうして、存在が永遠でもなく、また生成したのでもなく、さらにその両者を兼ね備えたものでもないとすれば、存在はありはしないことになるだろう。
さらに、もし存在があるのだとすれば、一であるか多であるかいずれかである。だが、一でも多でもないことは、以下で証明されるとおりである。したがって、存在はないのだ。
すなわち、もし一であるなら、不連続な量であるか、連続体であるか、大きさを持っているか、物体であるかである。だがこれらのいずれであろうと、一ではない。不連続量であれば別々に分けられるし、連続体であれば切断される。同様に、それが大きさをもつものと考えられると、不可分ではなくなる。また物体であれば三次元のひろがりをもつだろう。長さと幅と奥行きをもつからである。しかるに存在がこれらのいずれでもないと言うのは、摩訶不思議である。したがって、存在は一ではない。
また多でもない。なぜなら、もしそれが一でなければ、また多でもないからである。多は一つ一つあるものの集合であり、それゆえに一が抹消されれば、多もそれとともに抹消されるのである。
存在があるのでも無があるのでもないことは以上から明らかである。
また両者、つまり存在と無とがあるのでもないことも、容易に推論される。というのは、もし無がありかつまた存在があるのなら、あるという点で無は存在と同一になるだろう。そしてそのゆえにいずれもありはしないことになる。なぜなら、無がありはしないというのは合意事項であり、他方これと存在が同一となることはいま証明された。そこで存在もありはしないのである。のみならず、存在が無と同じであるならば、両者がともにあるということもできない。なぜなら、もしそれが両者と数えられるならば、同じものではないし、またもし同じものならば、両者ではないからである。
ここから帰結するのは、何もありはしないということである。というのは、存在があるのでもなく、無があるのでもまたその両者がともにあるのでもなく、他方またこれら以外の場合はないのだとすれば、何ものもありはしない。
ヘラクレイトス
理すなわちロゴスは、ここに示されているのに、人々は、それを聞く以前にも、ひと度聞いて後にも、決して理解するようにならない。なぜなら、すべての物事は、ここに語られた通りに生じているのに、彼らはまるでそれを見聞きしたためしがないも同然で、しかも、多くの話や事実を見聞きしながらそうなのだ。まさにそうしたことを私はつまびらかにしており、それぞれの物事をその本来のあり方に従って分明にし、それがいかにあるかを明示していると言うのに。他の人々は目覚め、後に何をしているのかも、さながら眠っている間の行いを忘れているのと同様に、気づかれていないのだ。それ故、あまねきものすなわち共通的なものに従わねばならない。しかるに、この理こそあまねきものであると言うに、多くの人々は、自分独自の思慮を備えているつもりになって生きている。
道がどこへ通じているのかを忘れている人。
彼らがとりわけ絶えずかかわりあっている理ロゴスー全体を司るものー、それと彼らは相入れず、また毎日突き当たっている物事が、彼らにはなじみのないものに思われている。
対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。そしてあらゆるものは争いによって生じる。
戦争はあまねきものであること、正道は争いであること、万事は争いと必然に従って生ずることを知らなければならない。
結びつきーそれは全体であって全体ではない。一体化していながら分裂している。調子が揃っていながら不揃いである。そして万物から1が生じ1から万物が生じる。
同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。
生まれ出た者たちは生きようとするが、それはすなわち死の定めを得たいと欲する、あるいはむしろ、安らかな眠りにつきたいと欲することに他ならない。そして、子供たちを後に残すことで、また死の定めが生ずるのである。
我々が目覚めた時目にするものは死であり、眠っている間に目にするものは眠りである。そして死して後に目にするものは生である。
目覚めている者たちには共通の1つの世界があるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけの世界へ帰っていく。
戦死者には、神神も人間たちも、共に敬意を払う。
なぜならばより大いなる死モロイにはより大いなる取り分モイライが当たる。
戦死者の魂の方が、病に倒れたものが魂よりも清らかである。
人は夜中になると自分の眼光が消えるので、灯火をつける。生者も眠っているときには死者につながり、目覚めているときには眠った者につながっている。
死後に人間たちを待ち受けているのは、彼らが全く予期もしなければ思いもかけないようなことである。
知を備えた唯一の存在は、ゼウスの名で呼ばれることを非とし、かつ是とする。
魂の限界は、それに行つこうとして、たとえあらゆる道を踏破しても、見つけ出せないであろう。それほど深い理ロゴスを彼は持っている。
海水はとても綺麗で、とても汚い。魚はそれを飲み生命を保っているが、人間には飲めないし、命取りである。
不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かの者の生をこのものが死している。
火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。
魂にとって水となる事は死であり、水にとって土となる事は死であるが、しかし、土から水は生じ、水から魂は生ずるのである。
湿ったものになる事は、魂にとっての喜びであり、あるいはまた死である。
われわれはかのもの魂の死を生き、かのものはわれわれの死を生きる。
いかなる場合にも命運は定まっているのだ…。
どんなふうに生きていけばいいものやら、…。
トイレは昔、厠(かわや)と言い、川の近くに建てられて、水に流したから、川屋だったとか。
しかし、直接的に糞をすると言うのは憚られるので、「厠にちょいと用事を足しに行く」と言うようになった。
そして、次第に厠という言葉が糞のイメージと近くなり汚いイメージをさせるようになり
「用を足す」としか言われなくなる。
そして、用を足す便利な場所ということで便所と呼ばれるようになった。もともと「便」には排泄物の意味はない。
しかし、厠が便所と呼ばれるようになり、大きなほうの便なのか小さな方の便なのかということで、排泄物を大便や小便と呼ぶようになる。
すると、便所は便利な場所ではなく、便をする場所となり、再び汚いイメージとなる。
そこで、外来語が入ってきて、これはハイカラだし、クリーンなイメージだということでトイレと呼ぶようになる。
トイレとは、英語の便所の意味だが、もともとはフランス語で化粧室を意味している。化粧室と便所が同じ場所ということが多かったため意味が変わったのだそうだ。
しかし、使い古すごとに再び、「トイレ」と聞くと汚いイメージになってしまい、接客業などでは「お手洗い」と言うようにするところもあるようだ。
しかし、いずれは「お手洗い」という言葉も汚いイメージに塗れ、再び新しい言葉が作られるのではないか?
この変遷を見ているとそう思わざるを得ない。
差別語なんかもそうしたイタチごっこなのだろう。
異常なほど燃え上がるような恋をしたことがあるだろうか?
常識や正義の名の下に燃え上がるような怒りで身を焦がしたことはあるだろうか?
それから、異常なものを見て恐ろしく寒い恐怖に脅かされたことがあるだろうか?
私はある。
恐ろしいもの
恐ろしいものとは何なのか?
例えば、大きなカラスが怖いとか?
実はうちではカラスを飼ったことがあるんですよ。
翼の折れたカラスを保護して。
私は突かれそうで怖かったが、カラスのほうも私のことを怖がっていた。
私のことを怖がって、私を突こうとする。
私を突こうとするから、私もカラスを恐がる。
恐怖に恐怖で返して互いに怖がっていたんですね。
もっと怖いことがあります。
私はちょっとふざけて、そのカラスにこう言ってみたんですよね。
昔の詩を真似して、
おまえは古の使い魔なのか?名はなんというのか?
ねばーもあ!
そしたら、そのカラス、しゃべったんですよ。
英語のnever moreだったと思います。「もはや何にもない」みたいな意味。
でも、そのカラス、実は存在していなかったんですよ。
もはやネバーモア。
大鴉を知っていますか?
大鴉とは狂人の妄想。
私は夢うつつだった。
私が見たのはただのしゃべるカラスだったのか。それとも、私を目覚めさせ、真理を告げに来た黒い使者だったのか。それとも、ただの夢幻、妄想だったのか。
妄想と迷信は捨て去られる理性の時代。
科学的にすべてのものが解明されると信じられている時代。
しかし、迷信と同様に人間の心というものは科学を持ってしても未だわからないところが多すぎるもの。
するとどうなるのか、理性や常識によって理解できない、我々とうまく意思疎通を図れない者は、心が健全でなく、つまりは病気であるとされ、狂人と呼ばれる。
わけのわからないものはそもそも存在しないから狂っている。心も迷信も神も言葉をしゃべる大きなカラスも妄想である。
そう判断してしまうほうがよい。
監禁の時代。1656年、フランス、一般施療院に入れられたのは放蕩者、リベルタン、浪費癖のある父親、神を冒涜する者、親不孝者、娼婦、自殺志願者、錬金術師、無宗教者、基地外、低能者、気のふれた者などを近親者が目に晒されないために隠した場所。
非理性的な者、狂っている者は病院や妄想の世界に入れて隔離するべきだということになってしまうのだ。
狂気の者が健全な者たちを惑わせることはないように、と。
かつて、西洋で、見世物小屋は身体障がい者を雇ったが、精神障害者が封じ込められた精神病院はひとつの見世物小屋だった。
普通の人が休日に精神障害者をちょいと見物に行くというのはよくあることだったのである。
しかし、今や我々は気軽に身体障がい者や精神障害者を見学に行くことはできない。
だが、奇妙な妄想の世界は理性的なあなたがたにも体験できる。舞台や映画だ。
今やこの舞台こそが見世物小屋。
相手はここ舞台に妄想の産物として隔離される。人々から決して理解できない者として。
理解できない者が現実にいたら恐ろしい。
人を恐ろしがらせる者は「芸術」ということにして閉じ込めておけばよいのだ。
あなたは理性的な者としてふるまい、自分は狂人などではないと思っている。
そうして何度も何度も執拗に狂人を檻の中に封じ込める。
ネバーモアと。
しかし、そんなあなたこそが狂人だったのではないだろうか??そんなあなたこそが大鴉だったのではないだろうか??
常識を守ることに、たまに正義という言葉をつけたりして、狂っていたのでは、ないだろうか??
あなたが狂人に怯える時、あなたもまた狂人を怯えさせていたのではないだろうか?
いいや、そんなはずはない。そうあなたは心の中で呟く。
そのときこそ、大鴉は、舞台からあなたに向かって呼びかけている。
これは現実にもありえない。そうだろ?ねばーもあ
あなたは狂ってなどいない。そうだろ?ねばーもあ
あなたは常識的で善良な市民だろ?ねばーもあ
舞台というのは心地よく浅い夢。
それとも、舞台とはあなたを現実から目を覚めさせるさらに深い現実か。
今週末開催のイベントで出演し大鴉をやります!ぜひお越しください。
イベント名、#劇怖
「人はなぜ、#恐怖 するのか?」をテーマにしたショーケースイベントです。
3月5日
午前の部→12:00
午後の部→17:00
午前と午後で内容や一部出演が変わります。
場所: #りんごスタジオ/鈴御座
(愛知県 #瀬戸市 須原町34-2/#名鉄瀬戸線「#尾張瀬戸」駅から徒歩10分)
※チケット:各回2500円(前売)/各回3000円(当日)/配信:各回1500円
出演:
怪物園(#森永眼/#森大地)
#伊藤えん魔
#安部火韻、(ポーの英詩を原案にした得体の知れないパフォーマンスを繰り広げます。)
イヒ屋ねこ〇(午前のみ)
#登龍亭幸福(午後のみ)
OA.#白山葵
本公演には作品の質を最大限に高める為、 演出表現として一部で「血液や恐怖映像、音響効果」等を使用いたします。
人によっては気分や体調を著しく書する可能性や、最前列に於いては、衣服等が汚れる可能性ございます。
以上を予めご了承の上、 ご予約をお願いいたします。
主催 #和文化復興プロジェクト(#大衆演劇 #御陵一座 )
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安部火韻