2015年8月24日月曜日

芸術とは精神である。

芸術とは精神である。
したがって、芸術とは言葉である。
しかし、芸術とは人に感覚を与える呪術でもある。
芸術は誰かに向けて創られるわけでも、何かのために作られるわけではなく、それ自体で最上のものを目指す。いわば、それは神に向けて創られる。
したがって、芸術とはわれわれの祈りである。

いまや美しいものはすぐに作れるようになってしまった。Macのフォトショップ、CG、非常に多くのデザイナーたち、映画、アニメ、ポスター、写真・・。
しかし、そもそも美しいものはもともと世界に溢れている、自然として。
現象学、そして受容理論以降、芸術とは形を創るものではなく、形の現れを享受することであると規定された。
受容理論においては、作者中心に考える仕方があまりに一元的で狭いものであり、作品は読者がいかに読みうるかによってようやく規定されるものであると批判された。それは作者の帝国に対し、読者が反逆をするという仕方で書き立てられた。
そうして、さらには作品はそれ自体で読者の読み込みとともに独自の進化を遂げるものであるとされるようになる。
現象学においては、言葉や心や考えに至るまでのすべての事柄はある現れである、つまり、まずもってすべては現象である、と考えるところから始まる。そもそも常にすでに、すべての事柄はある形をもってそのようなものとして(私という受け皿のようなものに向かって)現れているのであるから。
いわゆる芸術とは、ある形を創造し、社会に対し提示することであるが、先ほどの現象学、受容理論から言えば、われわれの出会うあらゆるすべてのものは芸術たりうることになる。
そこでは問題はあらゆるものにそれぞれの芸術性を見出せるかという読者個人の問題なのである。
私はだから、美術館に行くよりも、散歩を好む。散歩のほうがよっぽど芸術を享受できるし、感性も磨かれるからだ。
いまや、あらゆる生活のすべてが芸術である。
しかしながら、されば、制作者は、読者の側に立った何ものかを創ることに意味はあるのだろうか?
されば、いわゆる美術館に置かれる芸術品とは何なのか。
私に言わせれば、それは自己顕示欲の現れである。そうでないなら、なぜ自分で創作し、自分で享受するにとどまればよいのに、わざわざ他人にそれを提示しようとするのだろうか?
「芸術なんて道端に転がっている石ころのようなものだ。」岡本太郎
ただ便器を置いただけの芸術、デュシャンの「泉」はいわゆるそうした芸術品というものの形式を批判した。
美術館やギャラリー、サロンにおいては、名札を貼ってしまえば、どんなものだって便器だって芸術品になる。それが示されたのである。
芸術家は何をすべきなのだろうか。
芸術家には二つの方向性が残されているように感じられる。
1つは、解釈に余地を持たせる作品である。つまり、読者によってしか完成されないものである。それは、しかし、絵画よりか日常のほうに溢れていると思われる。さらば、次第に方向性はなんでもないものへと移行していく。そうして最後には読者に見向きもされなくなるだろう。
もう1つは、分かりやすくおもしろいものを創るという方向である。それは、エンターテイメントと言われる。映画と漫画はまさにわかりやすく、愉しく、欲望を満たせるように意図されできている。そうすると人を魅了するような物語のようなものが大事になってくるわけだ。アートはプレゼンテーションされるわけである。しかし、私はこうした仕方は、読者に媚を売っているようでよいとは思えない。
では、芸術家は何をすべきなのか?
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」において、恋に陥った男は相手に届くわけでもない恋文を書くことに熱中する。
誰かに読んでもらうために書いたのではないもの。
相手に送るわけでもないのに書かれる手紙。
相手はもういないのに綴られるメッセージ。
それこそが本物の芸術制作である。
どういうことか。

字は絵だろ!岡本太郎
絵(イマージュ)は字(シニフィアン)だろ!ラカン
芸術とは精神である。
:絵は人が描くものである。人の精神はシニフィアンの連鎖によって構成された無意識の大海にある。絵は、無意識的であれ、意識的に描いたものであれ、人が書いたものである以上、精神から表出される何かを示さざるをえない。
芸術とは言葉である。
:絵はすでにあるメッセージになってしまっている。モチーフはすでに何かを象徴するものである。芸術がシニフィアンの連鎖によって構成されているなにものかから表出されるものである以上、そこに何らかのメッセージ性が秘められてないことなどありえない。
芸術品はもちろん自由に創られていい。
すべて何かを語りかけている。言語的なものを図像的に伝えること、そのことに意味があるのであって、図像的なものそのものに意味があるのではない。
芸術は創られるものではなく、読者によって発見される自己イメージである。つまりは、人は通常自己イメージに基づいて、あらゆる現象を眺めているのである。それは自己満足の幻想以外のなにものでものない。
しかし、芸術はそれを超えて、自己イメージを破壊し再構築させる可能性を秘めているのである。
芸術とは創造そのものなのである。
拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中)

拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中2)

2014年11月14日金曜日

僕は考えることが好き―僕に興味をもってくれた貴方へ―

僕に興味をもってくれた貴方へ
考えることが好きです。いろいろ考えています。
最近は、「虚構であるゴーレムについて哲学するとはどういうことか」「人の人生まで左右するというこのお金とはいったい何者なのか」「子供と大人の違いは一体何か」「コミュニケーションは孤独を克服できるか」「信じることと疑うことはなぜこれほどまで似ているのか」「美は世界を破壊することしかできないのか」など考えてます。
カフェに行って読書と勉強をするのが趣味。時間が得られるときは、絵画、詩作したりします。本の朗読や暗唱も好きです。あとは映画演劇美術などの鑑賞もします。でも、世界冒険もしたいです。
容姿は童顔で背が低く、性格は不器用で天然です。
趣味性格が変わってるから、一人になりがちです。
孤独に強く生きていきたいという気持ちもあるが、一方では、孤独でいることにストレスも感じています。猛烈にさみしいです。私自身がよくわからないでいます。しかし、神は「人がひとりでいるのはよくない」といって、「イブをつくりました」(私はキリスト教徒ではない)

だから、まずはそこの貴方と話をして交流を深めていきたいです。

2013年5月14日火曜日

猫を見た

猫を見た。
その猫は、ケガをしていた。
その猫は片目だった。
片方が潰れていた。
その猫はしっぽが短かった。
しっぽは切れていた。
その猫はニャアと鳴かなかった。
その猫は私を見上げた。
その猫は悲しそうな眼で見上げた。
その猫に近づこうとする僕を
その猫は拒絶した。
その猫はスキマを抜け去った。
その猫は僕のココロのスキマを抜けて行った。
つかの間だった。
あの看板を見たからだった。
「東海大地震緊急避難経路」
東海大地震…
私は何をしているのだ?
私はなぜ東京へ行くのか?
その猫は?
その猫は一体、なぜ私の前に存在したのだろうか。
今となってはその猫も猫の鳴かなかった鳴き声も、同じことだ。
ただ一言二言言葉だけが残った。
「コワイ」「イタイタシイ」
ニャアという鳴き声も残らなかった。
東海大地震をイキノコレルのだろうか?
不況の競争社会をイキノコレルのだろうか?
イキノコった私はあの猫のように傷を負っているのだろうか?


イキノコレルイキノコレルイキノコレル





ニャア…



ニャア…



本当のところ、猫は鳴きたかった。





もういいよ…


ニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャア

2013年4月7日日曜日

孤独感と客観視

対象化することが孤独感を産む。一人でいるから孤独なのではない。私にとってのだれかがどこかにいるから孤独なのだ。

対象化するとは、ある物事か何かを自分から突き放して見ること。自分とは独立したものとして見る、つまり客観視しようとすること。もちろん人は完全に客観視することはできない。そこには常に主観がつきまとう。私自身の感情や私自身の身体や私自身の考え価値観世界観といったものがつきまとって、自分から完全に独立した何かとして見ることはできないのである。

ところが問題は完全なる客観視ではなく、客観視の試みである。客観視しようとすること、つまり対象化することによって人はようやく自分と対象との距離を感じることができる。これはある種の空間的なイメージであるが、この距離感こそが孤独の元凶かもしれないと思う。

自分から独立しているもの、自分とは異質なもの、どうしても分からないもの。人間は常にこうしたものに晒されている。 そういうものを感じることができる。そうしたものの中でも最も感じやすい異質なものは同種的なのに異質なものである。人間にとっては他人であろう。同種だからこそ違いが分かりやすく、その距離感を感じれる。だからこそ、だれかがいるからこそ孤独なのだと言える。

2013年4月5日金曜日

欲望の泉

死にたい。死んでしまいたい。
理性が吹き飛んでしまうと、そこから欲望の泉が湧き出る
そうして泉から湧き出た欲望に、私自身は沈められてしまう
甘えたいという欲望
ああ、私は何にも変わっていやしない
自分の抱える不満やら不安やら全部まとめて愛する人に押し付けてしまった。
全部まとめてその子の胸の中に飛び込んでしまった
でも飛び込んだところが、その子の魂はまだ小さすぎたんだ。
(笑)まったくお笑い草だよ
こんなにも好きなのに!!
シザーハンズの気持ちを初めて理解した夜
Tに昔されたことを今は俺がしているんだと気付いた日

無数の道

見よ!我々の前に立ちはだかるものを!
今、あらゆる価値は目的を失った。
我々はさまよっている。カインのように!
我々は道無き道を歩き出さなくてはならない/
私は、いつも立ち止まる。だが、立ち止まるときにこそ多いに進んでいるときなのだ。
常に二つの道があるからだ。
道はそこにないわけではない。
あるのだ。確かに!しかし注意深く見よ!道は隠されているからだ!
常に私の知らない道を探すのだ。迷え、迷え、子羊達!
だが、誰にも助けを請うな。自分で決めるのだ!
生きる目的とは何か?一つの価値である。では価値とは何か?価値とは言葉である。では言葉はどこから来たのだ。言葉は初めからそこに存在しなかった。それは人が作ったものだ。
そして、それに気づいたとき、私は目の前に無限の道が並んでいることを知った。それゆえ、私は未だ一歩も踏み出すことができないでいる。
ニーチェは新たな価値を造りだし、その道を示した。
しかし、その道も無数にある道の一つにすぎない。
私はその中から一つの道を選び出すことができない。
なぜなら、優劣をつけることができないからだ。それはなぜか?
なぜなら、道そのものが一つの価値であるからだ。
見よ!我々の前に立ちはだかるものを!
探すのだ!あるのかどうかさえ分からないおまえの道を!
ここに自由は誕生した!血を求め、鎖をひきずって!
道はそこにあるのか?道は歩むためにあるのではないか?
そうだ!道は我々が歩むためにあるのだ!
だがしかし、道を選ぶことで歩んでいると思ってはならない!
悩み迷うことそれこそが新しい道を造りだし歩むことなのだ!

2012年1月14日土曜日

学問創造

ぼくのやりたいことは哲学ではなく、趣味的であり斬新な観点。それは全く異なる観点の統合による新しい学問の発掘だ。2008年4月