実存主義とは何か?サルトル
サルトルは、実存と本質とを対比して説明している。
本質(essentia)とは、それなしに成立しない内包(述語づけられるもの)。属性の反意語。
「ソクラテスは人間である」。人間でないソクラテスがありえないなら、人間であることは本質。
「ソクラテスは哲学者である」。哲学者でないソクラテスは想定しうるので、「哲学者である」は属性。
サルトルは、多くの道具などの物にはその用途としての本質があるが、人間には本質より、実存が先立ってると考えた。
それがまず、「私が今ここにいる」という実存で、いろんな行為を通して、死後にこれがその人物の本質だったことになるという。
ソクラテスは哲学者として生きることで、「哲学者である」ことが彼の本質となるというような。
本質 essentia 。esseとは英語のBe動詞にあたるラテン語。
実存 existentia 。Existと関係している。 ex 外に+tesis立つ。外に立ってある。実存は「今ここにある」くらいの意味で考えてみる。(しかし、実存は元はシェリングが神の実存と使っていたらしく、それだと、また意味がようわからなくなるという。)
「実存が本質に先立つ」サルトル
今まで人間は本質が先だと思われてきた。例えば、人間は社会的で理性的な存在者であることが、人間が存在する以前から決まっているとか。そうすると、本質からズレてはならない。人間たるものは理性的で社会的であるべしということが言われてきた。つまり、人間の本質がそのまま人間の道徳(こうあるべし)だった。
サルトルはそれは逆で、まず人間が(なんの制約も意味もなくただ)ある(実存している)。次に、その人間が自由に行為する。で、それが人間の本質になる。と考えた。
例えば、「人間は嘘をつくべきでない存在だと決まっているから、嘘をつくな」ではなく、まず人間がいて、で、その人が個人的に嘘をつかないことを信条として実践し推進することで嘘をつかないことが人間の本質になると。
実存はただ今ここに存在しているということだが、それゆえに、何の制約もなく意味もなく存在していること。で、その自由な状態でなんの制限もなく何かを行為し始める。だから、その行為はどんな行為であっても自由であり、客観的な判断だと思うものも、その客観的な判断を最終的に選んだのは私という主観の判断となる。
そのため、実存主義は、主観的な判断だというイメージがついたりする。
あとは例えば、身内に人質を取られて返して欲しくば〇〇せよと命令されて何かをしなきゃならないという極限状態でも、その命令に従うか否かあるいは別のことをするかを決めているのは私という主観の自由な判断となり、その結果は私にとっては私の責任となる。
で、あらゆるすべての行為は私が決めた自由な行為なので、あらゆる結果に私は責任を持たなきゃならなくなる。
それが、社会的な責任の話になり、サルトルは特にインテリたちの社会的な責任をアンガジュマンと言った。
ただ、あらゆる結果は責任として引き受けるんだけれども、今この瞬間のこの私は、あらゆる以前の私の行為や過去からも離れて自由に選択することもできる。その意味でも「いまここ」。
例えば昨日彼と喧嘩したからといって、今もそれをひきずらなくてもよい。今突然唐突に彼に快活に話しかけても良いし、引きずって敵対を続けても良いし、仲直りを仕掛けてもよいが、彼に快活に話しかけても、彼に引き続き敵対を続けても、仲直りを仕掛けても、どれを選んでも、その行為は、私が今ここで決断した自由な行為。
それは確かにさまざまな過去があって、この世界の条理やらがあってのことだが、私はそれとは無関係にまったく自由に選ぶこともできるという。
みんななぜかこれしかできない選べない自由がないなどと考える。
0 件のコメント:
コメントを投稿