それまでテクストは時代背景や作家の膨大な資料から批評的に読まれてきました。「作者は何を考えてこれを書いたのか?」というのが中心にありました。
しかし、確か20世紀初頭から、テクストだけから読み取るということが出てきました。
そのひとつの潮流がニュークリティシズムですが、他にもロシアフォルマリズムなどがありました。
いずれも、時代背景とか作者の意図とかではなく、テクストそのものから、読み取ろうとするような批評の流派です。
構造主義とか、精神分析とかも、実はこれらの流れと無関係ではありません。
何かを意図する主体があって、その主体がいろんな行為をするという近代哲学のモデルから、主体を脱中心化しようという動きです。
それが批評においてはそのまま作者と作品の関係にずらされます。
作品は作者の意図通りに作られて(書いて)あり、作者という創造者(神)の意図を理解することだけが作品を読むことなのか?
そうして、ついにそれが1967年ロラン・バルトの「作者の死」という論文に結実しました。
作者という神はすでに死んだと。作者が意図通りに書いた作品なんてものはもともと妄想みたいなもので、作品は作品そのもので自立しているのだと。
こうして読むということの自由度はあがり、デリダなどの自由な読み解きが流行りました。
デリダは、「テクストの背後に本物のテクストの意味がある」みたいなのを否定してたと思います。
それらは作者の意図からすると誤読と言われることもありますが、作品そのものを新たに刷新してしまう可能性をもったおもしろいものでもあるかと。
「作者の死」はミシェル・フーコーの1969年の評論「作者とは何か?(英語版)」(フランス語 Qu'est-ce qu'un auteur ?)に影響を与えたと言われ[10]、両論文は作者論の代表的な著作に数えられる[11]。wiki
ジャック・デリダはバルトの死に際して「ロラン・バルトの複数の死」(The Deaths of Roland Barthes)というタイトルの追悼文を書いた[12]。wiki
しかし、ある名大のドイツ文学の教授がトーマスマンやアドルノを参照して曰く、
テクスト批評から歴史的な文脈や作者というものを剥奪するのは、特にドイツ文学の深層には神秘主義や至高のものを目指そうとする精神があって、それがナチス的な精神にも通じてしまうから、それを恐れて懸命に否定しようとしているのではないか?と言っていた。
また、戦後のドイツ文学は長いこと戦争やホロコーストの悲惨さを訴えるような暗いものが流行ったが、それはこうしたことと無関係ではない、と。
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」アドルノ
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