2020年4月11日土曜日

ミュンヒハウゼントリレンマ

「物事を突き詰めた結果として自分の中で納得し、それだからこそ他人にこれが真理なのですよと主張したくなってしまうほどの理論」が"真理"だと私は思います。

いや、+α「物事を突き詰めた結果として自分の中で納得し、それだからこそ他人にこれが真理なのですよと主張したくなってしまうほどの理論」が"真理"だと私は思います。

ミュンヒハウゼントリレンマ、以前調べたことある言葉だが、忘れてしまったな。どういう話でしたか?
嘘つきの三つ巴みたいなやつだよね。

ウィキによるミュンヒハウゼントリレンマの説明

1、どんなものでも正しいといえるためには根拠が必要である。あるものAが正しいといえるにはその根拠Bが必要である。また根拠Bが正しいといえるにはその根拠Cが必要である。また根拠Cが正しいといえるにはその根拠Dが必要であると根拠を要求すれば無限に続くことになる(無限背進)のではないか

2、どこかで「原理」や「証明はなくても正しいとみなす」といったそれ以上根拠を問えないような理由(ナマの事実)を立てて1の連鎖を止める場合、その理由自体は正否が保障されないので確実ではない

3、もしA→B→C→D→…の連鎖がどこかでAに戻ってくるならば循環論法になり無効になる

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないということ?

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理はどうなんだろうか?この真理もまた無限背進・ナマの事実・循環論法に陥るのだろうか?

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理を真理aとしよう。
さて、この真理aの正当性は無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できない。

故に、真理aは真理として確定できない。

ところで、真理aとは無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理だった。

故に、無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないなどということもない。

しかし、そうすると、真理aの真理の確定方法は、、永遠に続く。

結論: この真理aについての証明そのものが無限背進による循環論法に陥っていることが示せた。

ミュンヒハウゼントリレンマを発見したハンスアルバートが「ミュンヒハウゼントリレンマ、これこそが真理だ!」と言ったとき、彼は何を基準にミュンヒハウゼントリレンマが真理だと思ったのかそれが気になる。

明示はできないが、ミュンヒハウゼントリレンマ自体が、循環論法に陥っていながらも、ミュンヒハウゼントリレンマが正しいと言うその地平にこそ、理性という得体のしれない判断力があるのだと思う。

カントも、ウィトゲンシュタインも、ゲーデルも似たような地平に立って、真理そのものについてこの訳のわからぬものをぐるぐる考え続けていた。感じがする。
こういうのは超越論哲学 "transzendentale Philosophie "と言われる。(ゲーデルはまたちょっと違うけど)


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