離別と死別は違うのか否か。
これは入不二基義がその著書『現実性の問題』で取り上げていた問題だ。この例は入不二哲学ではない仕方でも、様相というものを考えるのにいい材料と思われる。
入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達と、亡くなってしまった祖母とは、会えないが毎日続いているという点では全く同じだよね。」
大人「いや、全然違うよ。転校してしまってもまだ会える可能性はあるけど、祖母にはもう会えないじゃないか」
入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達だよ。だから、現実にはその後一生会えていないんだよ?」
大人「現実には会えてなかったけど、可能性はあったでしょ。可能性に注目してよ」
入不二少年「現実を無視していい可能性なら、祖母にだって可能性そのものはあるよ。僕が死んだら会える可能性だって、祖母が生き返る可能性だって、現実を無視したらあるじゃないか。」
大人「いやいや、現実的な可能性を考えろよ」
入不二少年「現実的な可能性!?現実なのか可能性なのかどちらかではないのか?」(続く)
果たして、可能性とはなんなのか?現実とはなんなのか?
ここで、死別と離別は全然違うじゃん。相手の現実が違うと言うツッコミが入った。
しかし、私は会えるかどうかという話をしています。
離別でも、東京に引っ越すのと、大阪に引っ越すので相手の現実が違うとも言えますし、死別でも、ソクラテスのように死を喜んで受け入れたのと、特攻隊として国のために行ったのと、ヘーゲルのようにチフスで死んだのとでは現実が大違いとも言えます。
細分化してしまえば、死別と離別とで区別することの意味は無くなります。逆に、抽象度をあげればすべてが同じになります。
で、それをわざわざ中途半端な死別と離別の区別に拘る点ですね。
結局は、死別と離別は違うか同じかを問いたいわけではなく、それを問うことで、現実性と可能性の関係についてのまずは不思議を感じることが主眼となっていると思います。
死別と離別は、みんながイメージしている具体的な経験でいろいろ判断されてしまうのなら、これを別の仕方で喩えられるだろうか?
例えば、サイコロでもいい。
サイコロを振る前には2026/5/25/18:00におけるこの一振りは確率で2が出る可能性があると言われていた。
2026/5/25/18:00に振ったら、5の目が出た。
サイコロはこの2026/5/25/18:00における現実には5の目しかでなかった。
ゆえに、サイコロのこの一振りにはいかなる意味でも可能性などなく5の目が出る現実100%しかないとも言える。
それでも、2の目がでる確率は1/6あったのだと主張することは可能だろうか??
みたいな感じが入不二さんが切り込んだ視点と思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿