アンデルセンの赤い靴の舞踏コンテ・ワカバコーヒー版に現れている新解釈!!
2026年4/11〜12に行われた舞踏コンテのワカバコーヒーによるワークショップ公演「The Red Shoes」(舞踏コンテとは、暗黒舞踏の系譜の舞踏とコンテンポラリーダンスとの融合した身体表現の造語)
新解釈は、私の友人でもある哲学者がこの公演を見て、あまりピンと来なかったと言っていたところから始まった。
彼はそんなことより鉄パイプ椅子が硬くてお尻が痛いことが気になっていたようだ。
まずは我々が見た舞台「The Red Shoes」 について大筋を描いてみる。
前奏: メガネをかけた黒服白塗りの男が赤い靴について語りながら、少女たちのマネキン人形をたくさん出していく。マネキン人形は彼が見せる赤い靴によって動き出し、ついには踊り出す。この男はいわば 「世にも奇妙な物語」のタモリのような位置付けだった。
(実はこの方が演出で主催の舞踏家若羽幸平さん)
第一幕: 口紅を塗り美しくなることに少女たちが取り憑かれて、ついには踊り出すところを描く。私はこの口紅こそが赤い靴の象徴なのだと思っている。
その笑顔は、少し怖く狂気じみている。最後には靴を外したかのような動きがあり、苦しみなのか解放なのかさらなる狂気に陥る。

第二幕: 真っ黒い衣装に赤い靴だらけのひとりの精霊(ghost、女性的?初演では西洋老女のようにも見えた)がゆっくりとした動きをしている。赤い靴の黒い精霊、または、赤い靴そのものの象徴かもしれない。
その周りに赤い靴を履いた片足を強調しつつダンサーたちが現れ、とてもゆっくりとした動きでびっこを引くようにずり歩き、
その老女を取り囲む。
後奏: 大円団でみんなが踊ってそれぞれがそれぞれの個性を出している。
終幕
もちろん、私の視点なので私の解釈が入っているかもしれないが、およそこのような筋であった。
ワカバコーヒーの赤い靴のTrailer ↓
https://instagram.com/p/DW0u_DsAd2s/
原作、アンデルセンの赤い靴↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000019/files/42378_18502.html
では、1番気になるところから始めたい。
アンデルセンの原作とも違っていて、1番異質だったのは、赤い靴の真っ黒な精霊の存在だろう。こんな存在は原作には出てこない。
・あるお客さんの見立て
この作品を鑑賞した或るお客さんの見立てでは、
この赤い靴の真っ黒な精霊は、踊る少女たちから靴を回収しにきたように見えていたそうだ。
その見立てでは、
赤い靴あるいは口紅とは、少女たちの欲望の対象であり、
踊るとは、欲求追求による闘争の過程。
つまり、口紅としての赤い靴を手にした、少女たちは欲張り、自己中に人を蹴落としたり、一番になりたくて喧嘩したりしてしまった。それがダンスとして現れている。
そして、赤い靴の黒い精霊が少女たちの良心として現れ、「それでは、ダメですよ」と赤い靴を回収しにきたように見えていたのだ。
アンデルセンの原作でも、少女は踊りたいし、赤い靴を履きたいのだが、周りの大人たちは、色気づくな!質素にせよと、少女の楽しみを奪おうと意志していた。
Red shoes の第一幕での少女たちの踊りの最後は、少女たちが足を手でかざしながらピタリと止まり、そこから、狂っていく感じがあるのだが、それは靴を取られて苦しみに移行したように見える。
つまり、彼女たちは赤い靴の黒い精霊に靴を取られてしまったのだ(とそのお客さんは考えた)。
・哲学者の見立て
さて、私の友人は赤い靴の真っ黒な精霊が出てくる第二幕の進行がゆっくりとしたシーンであることが気になっていた。正直、(お尻が痛いからw)早く終わってほしいと思っていたようである。
彼は、観客が積極的に想像力を働かせて関与することで成立する作品には慣れていないのかもしれない。
ここで私は提案をする。
例えばだけど、この「The Red shoes 」が実はあなたのために作られたあなたのための作品だと想定してみるのはどうだろうか?
と。
アンデルセンの「赤い靴」は通常、少女が中心的に描かれている。ここにワカバコーヒーは、第二幕で靴そのものの視点(赤い靴の黒い精霊のこと)を描いている。
それも、少女からすでに切り離されてしまった靴なのである。だから、第一幕に比べて静かでゆっくりとした動き、もう疲れて動けない。動きたくても、びっこをひきひき、活力がない。
※アンデルセンの「赤い靴」では、靴は切り離されても、踊り続け、教会の前で少女が再び出くわしたときも元気に生き生きと踊り続けていたので、この演出もワカバコーヒー独自の改変である。
少女は踊り、靴を履き潰す。
靴は少女を踊らせる。
それが靴と少女との関係だ。
例えば、あなたが靴ならば、あなたの恋人があなたを履き潰してしまう。そうして、疲弊するというような見立ては可能だろうか?
メンヘラ彼女が私に無理なことを言って、私がそれに踊らされてしまうような。
彼自身の人生に関してはそんなことはない。
と彼は言う。
むしろ、哲学者たる彼が疲れているのは日夜、哲学に取り組み、真理を探究していることによってだ。実のところ休息がほしい。かなり疲弊しているが、哲学者である以上、真理を探究し続けねばならないと言う義務感によって、真理探究をし続けている。
心の中では誰かブレーキをかけてくれと思っているところがあるが、誰かがブレーキをかけたとしても、他ならぬ自分自身が真理探究を辞めることを決して許さない。
ついには、寝ているときでさえも、夢の中でも考え続けてしまっているということだ。
私は気がつく。
ニーチェは「真理とは女性のようなものだ」と言っていたが、靴があなたのような哲学者だとしたら、それを履いて踊る少女は「真理」なのではないのか?
いわば、真理という少女が靴であるあなたに思考のダンスをさせ続けて止まないという。
彼は反論する。
『それはそうかもしれない。だけど、アンデルセンの赤い靴では、首切り役人(絵本ではきこりが多い)に向かって、少女は「足を靴ごと切り落としてほしい」と懇願しているよ。真理が私を切り離したがっていると言うのか??』
私は答える。
エウレカ!(わかったぞ!)首切り役人に向かって、「足を靴ごと切り落としてほしい」と懇願していたのは、実は少女ではなくて、靴のほうなんじゃないのか??
実のところ、少女は踊り続けていたかった。しかし、靴の方はボロボロに履き潰されかけて疲弊していた。だから、靴が少女の声を真似して首切り役人に切り離すよう懇願したのではないか!?
もちろんそれはアンデルセンの原作ではなく、ワカバコーヒー版の赤い靴だけの表現だ!
ワカバコーヒーはアンデルセンの「赤い靴」に、新解釈を付け加えていた!そして、それはさらにあなたという鑑賞者と私の批評によって今、完成したのだ!
少女と赤い靴はワンセットだ。
少女からしたら、靴が踊りたがり、靴が私を踊らせているのだと感じるだろう。そうして、苦痛の中に喜びがある。それが時折みせる恐ろしい笑顔なのだろう。
※実はワカバコーヒー版の踊りの中に笑顔を狂気的に見せる演出があった。
一方では、靴からしたら、踊りたがっているのは少女のほうで、少女が私を踊り履き潰すのだろう。
疲弊し切って黒くなった赤い靴の精霊が、ひとり佇み、その最後の自由を堪能しているのだろう。
友人は言う。
「私はどうしても哲学をやめられない。やめられるのは死ぬときじゃないのか?ドイツの大哲学者カントなんかよりもよほど真理に狂っているよ。」
と。
私は気づく。
思えばカントが死の床で末期に言った言葉は”es ist gut(it is good.それは良い)”だった。
あの意味は、カントが人生を振り返って人生は良かったと思ったということではない。過去形ではないのだから。彼の人生からの解放としての死、つまり、カントは死によってようやく哲学から解放されることによる「それは良い」なのではないのか??
それが私の友人哲学者にとっても同じでありうると!
もちろん、演出家が我々の想定を意図していたとは到底思えない。
「赤い靴」は、作者や演出家の意図からはすべからく離れ、観客の赤い靴をはいてひとりでに踊り出し、
我々の中では哲学者の運命を描いた作品になり、一層味わい深くなった。
偶然に出会ったものを自分の人生においてあえて必然化してみること。それは、まるで偶然引いたタロットカードに人生を投影するようなものだが、そのようにして、あなたが出会ったすべてのものに運命的な意味を見出し、ある種の人生の豊かさを獲得することができる。
そのように芸術作品を見て、いや、そのようにすべての事柄を見ることをこれを今読んでいるあなたにもお勧めしてみたい。
掲載写真の撮影: 腰山大雅
2026/4/14 第1稿
2026/5/4 論考の修正および追加





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