ネオ高等遊民さんがカントの「実践理性批判」を解説する動画を見た。
だが、ネオ高等遊民さんはカントの著作そのものはあまり読んでないということがわかる。
ネオ高等遊民さんはこう話していた。
我々は自然法則には逆らえないが、道徳法則には逆らえる。例えば、嘘はついてはならないが、嘘がつけてしまう。だから、我々人間は自由だ、とカントは見抜いた、と。
これは全然違う。
実際に、実践理性批判を開いてみよう。
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
あなたは何してる人なのと聞かれて何と答えるか?
私はいつも困惑していました。いろいろやっていたから。
しかし、友人から、何でもいいからとりあえずひとつわかりやすいのを出しておくことがまず重要だと指摘されました。
まずは相手に一度、理解した気にさせること。
「俳優です」とか、「画家です」とか。んで、一旦相手をそうなんだと納得させておいてから、いや実は俳優だけど(あなたが思うような)俳優じゃないんですといく。実は演劇といっても普通のではなくて身体表現とか、アングラとか、全裸とか、表現が普通の会話が少なくてとか…、あと実は絵も描いていて、それから、哲学も独学でいろいろと勉強してまして…、、みたいな感じです付加していく。
MBTIを聞かれた時も、はい、仲介者です。と言ってから、実は、先日やったら仲介者ではなかったんです。半年に1回くらいやって、3度ほどやったのですが、討論者だったときも、広報運動家だったときも、ありました。といく。
デリダとかも似たような感じだろう。
一旦、差延と名付けておく。でも、差延はそもそも名付けられないようなものなんですよ。消極的なものなんですよ。いや、違うんですよ。”もの”ではないんです。みたいな。
つまり、一旦、理解した気になっておいてから、体得してから、それを崩す。それが守破離
MBTIという心理テストが流行りである。
私がMBTIを知ったのは勤めていた会社の女性上司が同僚たち全員に勧めて、それで勧めとは言うものの、半ば強制のような圧でやることになりましたw
しかも、全員のMBTIの一覧が職場に貼られましたw
私自身はやるたびに違う結果が出るのであんま信用していないですが。そして、全員のそれを張り出すのはいいのか?とは思いましたが。
実は、占いに詳しい人ならMBTIの対比が次のことから来ていることが分析できると聞いた。
⚫️ 身体を消去する舞踏
笠井叡(かさいあきら)先生という舞踏家の、年に一度ほどのワークショップを4年前から続けて受講している。そして、今年は11月にワークショップ発表公演を行う予定でもある。
その身体表現の技法は根源的で神秘的、今ふうにいえばスピリチュアルな方法である。
先日のワークショップの中でひとつ取り出して紹介すると「身体を消去する舞踏」というものがある。
踊りという身体表現にも関わらず身体を消去するとはどういうことか?
まあ、理解しやすく説明すると、「身体が消えたつもりになって踊れ」ということである。