最近、私は哲学に関するいくつかのオープンチャットに参加している。そこではさまざまに議論が繰り広げられるのだが、時折、喧嘩も見受けられる。しかし、大抵は管理者や発言力のある人が間に入って仲裁に入り、なんとか収まることが多い。
このように、対立が起これば、常に誰かが間に入り、調停がなされる。対話とは常に政治的であり、やはり人間は政治的動物とも言えるのだ。
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』