2025年7月19日土曜日

ヘーゲルの「精神現象学」をかっこよく訳す。否定的なもののもとでの滞留


 「力を失いし美しさ、美は知性を憎んでいる。なぜなら、知性は美に不可能を要求するからである。

だが、死を恐れ、破滅から完全に逃れる生ではなく、死を耐え抜く生こそが、精神の生きざま!

おのが真理を勝ち取るのは、精神が絶対的分裂のうちに自らを見出すときだけなのだ。

我々は何ごとかについて、それが存在しないとか、間違っていると言って、それで終わらせて通り過ぎてしまう。つまり、否定を否定し、肯定を肯定してしまうとき、精神は真理を得る力ではない。むしろ、この力なのは、否定を見据えて、そこに留まることによってこそである。

否定的なもののもとでのこの留まりが、否定を存在へと変えてしまう魔法の力なのだ!」

『精神現象学』ヘーゲル (安部火韻による超訳)


翻訳の観点:直訳ではなく、聞きやすい朗読を念頭に置き、あえて意味を汲み取って表現を変えている部分をおいたので、超訳とした。


超訳(誤訳?)ポイントをひとつひとつ挙げていく。

知性”Verstand”:通例、Verstandは「悟性」と訳されるが多くの人になじみがなさすぎるため、知性とした。

不可能”was sie nicht vermag”:直訳すると「それ(美)がなしえないこと」だが、長い言い方で聞き取りづらく意味を把握しずらいので美にとっての不可能ということで「不可能」とした。

逃れる”bewahrt”:樫山はドイツ語の通り「身を守る」と訳していたが、わかりやすさの重視で「逃れる」とした

死を耐え抜く”das ihn ertragt und in ihm sich erhält”: 「死を耐え抜き、そのうちに自己を保持する生」なのだが、冗長に感じ、かつ「とどまる」という表現はこのあとにも出てくるため、ひとつにまとめた。

精神の生きざま”das Leben des Geistes”:文の全体は〈死から逃れる生ではなく、死を耐える生が精神の生である〉ということだが、わかりづらいので、「生きざま」とし、朗読の際にここでひとつ決めるため、体言止めとした。

「否定を否定し、肯定を肯定するとき」”als das Positive, welches von der Negativen wegsieht”:ドイツ語に忠実であれば、「否定的なものから目を背ける肯定的なもの」とすべきだが、パルメニデスの思想「あるはあり、あらぬはあらぬ」を否定していることをニュアンスとして盛り込みたく、このようにした。

否定”Negative”:Negativeは「否定的なもの」とすべきで、単に「否定」を表すドイツ語はNegationであるが、「否定的なもの」というのがいちいち長い単語となってしまうため、意味は通じるだろうとあえて「否定」と訳した(肯定も)。最後のものだけ、「否定的なもの」を残したのはジジェクの「否定的なもののもとでの滞留」を意識して、このフレーズの際立ちを残したかったのでこのようにした。ただし、滞留は「対流」と聞き間違う可能性を加味し、「とどまること」「とどまり」とした。




なるべく直訳にしようとした翻訳を載せておく。

「力無き美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は美にそれが成し得ないことを要求するからだ。

しかし、死を恐れ、破滅からまったく身を守る生ではなく、死に耐えて、死のうちに留まる生こそが、精神の生である。

精神がおのが真理を獲得するのは、精神が絶対的分裂のうちに自らを見出すことによってなのである。

この力は、〈我々が何かについて言うときに、それが存在しないとか、誤っていると言って、それで終わらせて、別のものに移るためにそれについては捨て去るような〉否定的なものから目を背ける肯定的なものとしてではなく、むしろ、精神がこの力なのは、精神が否定的なものを見据えてそこに留まることによってなのである。

この留まりが、それを存在へと向け変える魔力なのだ。」

(なるべく直訳、安部火韻による)

2025年7月12日土曜日

エミネムとアメリカ史



 「8マイル」はラッパーエミネムの自伝的な映画である。私も有名になった歌”lose yourself “を聴いてからエミネムにハマり、見たことがある。

ところで、エミネムは70年代のデトロイト生まれであり、8マイルの舞台もデトロイトだった。デトロイトと言えば、車産業が盛んで、GM(1908〜)、フォード(1903〜)、クライスラー(1925〜)のビッグスリーがあり、車産業にまつわる仕事がたくさんある。

その歴史はアメリカ南北戦争(1861〜65)にまで遡る。アメリカ南北戦争において、北が勝利することで、南部で綿花を栽培させられていた多くの黒人奴隷たちは、解放されて北部へと移動し、そこで労働者となった。

そして、デトロイトでは車産業に従事した。しかし、80年代から日本やドイツの車の台頭により産業が衰退すると、黒人が住む地域のスラム化が加速した。だから、日本を揶揄する表現のある映画「グレムリン」(1984)や、デトロイトを舞台にした犯罪とテクノロジーとを問題化した「ロボコップ」のような映画(1987)もできたのだろう。ちなみに、1993年のロボコップ3は日本企業が悪玉とされている。

そしてまた、その黒人社会の中で、ヒップホップ文化も育まれていったのである。でエミネムは誕生したのだ。(まあヒップホップ文化そのものはニューヨーク、ロサンゼルス、それからヒューストンが盛んだったが。)

2025年7月10日木曜日

海の上のピアニストは、海に出たことがない大哲学者だった!? 〜1900とカントの伝説〜


「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老いを迎える者は日々旅にして旅を住処(栖)とす。」『奥の細道』松尾芭蕉

映画「海の上のピアニスト」を見たことがあるだろうか?1900年に生まれたゆえに《ナインティーンハンドレッド》と名付けられしピアニストの男は、幼い頃から死ぬまで船の中で暮らし、決して船から降りて陸地へと旅立つ事はなかった。だが、彼は船の外の世界ことにも関心がないわけではなかった。むしろとても気にはなっていたであろう。だが、それらを実地で歩いて、知ろうとはしなかった。

ただ彼は、一度だけ、陸地に旅立とうとしたことがある。しかし、彼は船と陸とを繋ぐタラップの上で陸地を目の前にして尻込みし、こう考えたのだ。


「ピアノは違う。鍵盤は端から始まり端で終わる。鍵盤の数は88と決まってる 無限じゃない。弾く人間が無限なんだ。人間の作る音楽が無限。そこが好きだ……タラップから見えたのは何千何億という鍵盤だった。無限に続く鍵盤 人間が弾ける音楽は無い。神のピアノだ……」


彼は陸地の大きさを目の当たりにして船から陸地へと降り立つことを自らの意志で断念したのだ。


私はこれらの話を見て、18世紀のドイツの哲学者カントを思い出す。

2025年7月2日水曜日

実存主義と自由、サルトル

 実存主義とは何か?サルトル


サルトルは、実存と本質とを対比して説明している。


本質(essentia)とは、それなしに成立しない内包(述語づけられるもの)。属性の反意語。

「ソクラテスは人間である」。人間でないソクラテスがありえないなら、人間であることは本質。

「ソクラテスは哲学者である」。哲学者でないソクラテスは想定しうるので、「哲学者である」は属性。


サルトルは、多くの道具などの物にはその用途としての本質があるが、人間には本質より、実存が先立ってると考えた。

それがまず、「私が今ここにいる」という実存で、いろんな行為を通して、死後にこれがその人物の本質だったことになるという。

ソクラテスは哲学者として生きることで、「哲学者である」ことが彼の本質となるというような。

本質 essentia 。esseとは英語のBe動詞にあたるラテン語。

実存 existentia 。Existと関係している。 ex 外に+tesis立つ。外に立ってある。実存は「今ここにある」くらいの意味で考えてみる。(しかし、実存は元はシェリングが神の実存と使っていたらしく、それだと、また意味がようわからなくなるという。)


「実存が本質に先立つ」サルトル

今まで人間は本質が先だと思われてきた。例えば、人間は社会的で理性的な存在者であることが、人間が存在する以前から決まっているとか。そうすると、本質からズレてはならない。人間たるものは理性的で社会的であるべしということが言われてきた。つまり、人間の本質がそのまま人間の道徳(こうあるべし)だった。

サルトルはそれは逆で、まず人間が(なんの制約も意味もなくただ)ある(実存している)。次に、その人間が自由に行為する。で、それが人間の本質になる。と考えた。

例えば、「人間は嘘をつくべきでない存在だと決まっているから、嘘をつくな」ではなく、まず人間がいて、で、その人が個人的に嘘をつかないことを信条として実践し推進することで嘘をつかないことが人間の本質になると。

実存はただ今ここに存在しているということだが、それゆえに、何の制約もなく意味もなく存在していること。で、その自由な状態でなんの制限もなく何かを行為し始める。だから、その行為はどんな行為であっても自由であり、客観的な判断だと思うものも、その客観的な判断を最終的に選んだのは私という主観の判断となる。

そのため、実存主義は、主観的な判断だというイメージがついたりする。


あとは例えば、身内に人質を取られて返して欲しくば〇〇せよと命令されて何かをしなきゃならないという極限状態でも、その命令に従うか否かあるいは別のことをするかを決めているのは私という主観の自由な判断となり、その結果は私にとっては私の責任となる。

で、あらゆるすべての行為は私が決めた自由な行為なので、あらゆる結果に私は責任を持たなきゃならなくなる。

それが、社会的な責任の話になり、サルトルは特にインテリたちの社会的な責任をアンガジュマンと言った。


ただ、あらゆる結果は責任として引き受けるんだけれども、今この瞬間のこの私は、あらゆる以前の私の行為や過去からも離れて自由に選択することもできる。その意味でも「いまここ」。


例えば昨日彼と喧嘩したからといって、今もそれをひきずらなくてもよい。今突然唐突に彼に快活に話しかけても良いし、引きずって敵対を続けても良いし、仲直りを仕掛けてもよいが、彼に快活に話しかけても、彼に引き続き敵対を続けても、仲直りを仕掛けても、どれを選んでも、その行為は、私が今ここで決断した自由な行為。

それは確かにさまざまな過去があって、この世界の条理やらがあってのことだが、私はそれとは無関係にまったく自由に選ぶこともできるという。

みんななぜかこれしかできない選べない自由がないなどと考える。

2025年6月29日日曜日

ライプニッツの襞とは何か?


襞(ひだ)といえば、ライプニッツの哲学がある。ドゥルーズもライプニッツから襞の概念を持ってきているようにも思われる。ドゥルーズの著作に「襞: ライプニッツとバロック」がある。

襞とは何だろうか?

ライプニッツはこの世界はモナド(単一のもの)が集まってできていると考えていた。モナドロジーである。モナドは単一であるが、多を含んでいる。もっと言えば、全世界や神すら含んでいるらしい。(含むという表現ではなく、映し出すという表現のほうが適切なのかもしれない。)


「すべての魂はこの世界を映し出す永遠の鏡なのです。これらの鏡は普遍的でさえあり、それぞれの魂は宇宙全部を厳密に表現しています。なぜなら、世界には、他の一切を感知しないようなものはなく、ただ隔たりに応じて、その結果がより目立たなくなるだけだからです。けれども、あらゆる魂のなかで最も気高い魂とは、永遠真理を知解できる魂であり、混濁した仕方だけで宇宙を表現するのではなく、さらに宇宙を知解し、至高の実体の見事さと偉大さについて判明な観念をもちうる魂です。それは宇宙全体を映す鏡であるばかりでなく、この宇宙のなかの最上のもの、すなわち神そのものを映す鏡でもあるのです。」ライプニッツ書簡


映しだされたものは表象という。単一でありながら、すべてを映し出す。しかし、我々はあらゆるすべてを知っているとは到底思えない。すべてを含んでいるにも関わらず、なぜ我々はそれを知らないのか?

ライプニッツはあるときは「波を観る」という譬えで説明する。我々は波の全体を見て、波だとわかっても、波の細部を明確に認識しているわけではない。それらが私の瞳に映っているにも関わらず、だ。つまり、見えていても判明でないことがありうると。

また、別の時には「襞」を用いて説明する。モナドにおいて世界のすべてが表象されているのだが、それらのほとんどは無限に折り畳まれ襞状になっている。それゆえ、折り畳まれた部分は開いていかなければ意識できないのだ、と。

2025年6月24日火曜日

フィフス・エレメントとは何か?

 フィフス・エレメントという映画がある。




1997年にリュックベッソンが監督した未来のSFものの映画である。結構、変な映画で、コメディ的な要素も多い。


そもそもフィフス・エレメントとは何だろうか?

フィフス・エレメントとは、英語で第五の元素(要素)という意味である。特に日本ではあまり馴染みがないかもしれない。

第五の元素を考える前には、まずは四つの元素から考える必要がある。映画でも登場した四つの石に対応している地水風火である。この考えは今ではトランプやタロット、星占いにも残っている。


火は、直感、♠️、ソード🗡️。

風は、知性、♣️、ワンド🪵。

水は、感情、♥️、カップ🍷。

地は、感覚、♦️、ペンタクル💰。

というように対応している。


この世界は四つの元素でできているという考え方は、東洋や中東も含めいろんなところにあるが、西洋では古代ギリシャの哲学者エンペドクレスに遡る。


エンペドクレスの考えはそのままプラトン、アリストテレスに引き継がれるが、アリストテレスは、四つの元素にもうひとつ付け加える。

それが第五の元素アイテール(英語でエーテル)である。

地水風火は地上において作用するもので基本的には一時的に直線的な動きをすると考えられているが、アイテールは地上ではなく、宇宙で作用し、永遠に円環する動きをすると考えられている。

まあ、アリストテレスは天体の動きから、このようなことを考えたのだから。


ちなみに、科学においてもアインシュタインの時代までエーテル(アイテールはギリシャ語)の考えは残り、宇宙を満たし、光を伝える媒体であると考えられてきた。しかし、宇宙科学の発達により、宇宙には何も満たされていない真空であることがわかり、エーテルは否定された。(1887年のマイケルソンとモーリーのエーテルの風の観測実験から、1905年にエーテルなしにも時空間を相対化することで整合的に考えることができた特殊相対性理論に至るまで)


映画では第五の要素は愛とされるが、それはおそらくキリスト教的なものが結びつけられたのだろうと考えられる。


キリスト教では、神の愛が中心的に考えられる。

神は愛そのものであり、そのまま、天上の宇宙的なものに結び付けられる。

アメリカでは、神=宇宙人説というものもあるようだ。そういうわけで、ミラショヴォビッチが演じる赤髪の女の子は神の子的な立ち位置にある。実際、世界を救いますし。

エーテルは物質としては否定されたが、この映画では精神的なものとして復活させる、そんな感じを受ける。

ただ愛の描き方が俗的で、性愛だったのが気になるが。全体としてはコメディ感がある映画なので、そんな真面目に受け取らないのが良いのだろうw

2025年6月8日日曜日

日常に侵入するグロい芸術作品









 グロテスクなものが芸術作品とされることは、今までにもあった。というか、そういうものはむしろ多くありふれている。しかし、今回これが炎上しているらしいのはそれが刺身などに使われる醤油皿だったからではないだろうか。それまでは、グロテスクなものが芸術品になったとしても、それは美術館における展示という、いわばお客さんにとっての非日常的な空間、自分たちから離れた安全な場所にあるので、「こういう芸術ね。」ということで納得してきたのだろう。あるいは、グロテスクなものも、またお祭りや宗教的な儀式といった非日常的な空間においてのみ許されてきた部分があるだろう。しかし、これが醤油皿になったことによって、自分たちのとても近い場所、日常的なものへとグロテスクなものが侵犯する。ゴヤのグロテスクで残酷な絵を購入したとしても、食卓に飾ろうと言う人はあまりいないだろう。しかしながら、アートは、そもそも我々の日常へ侵犯することを試みてきた。そういう側面もある。そのため、時に過激であるとして、物議を醸すこともあるし、物議を醸すことを目的としている場合すらもある。今回この醤油皿が新しいのは、それが我々にとって特に近い、リアルな我々の食事を想起するからだろう。