2025年5月27日火曜日

ドゥルーズのニーチェ解釈を簡単に。

 ニーチェの永劫回帰

ニーチェには永劫回帰という発想がある。

永劫回帰とは、自分が死んだ後も、もう一度まったく同じ自分の人生を初めから、まったく同じように繰り返すということである。

この考えはいろいろと解釈されてきたが、中でも、ドゥルーズという哲学者の解釈について紹介したい。

ドゥルーズのニーチェの永劫回帰解釈を一言で言うと、

永劫回帰は永劫にこの人生が回帰することではなく、永劫回帰を意志するような生き方のこと!

である。

では、これを3つの観点でさらに詳しく説明したい。


・「永遠回帰とは選択的である。」

永劫回帰というのは永劫に繰り返されることではなくて、今この瞬間にしようとしていることは何度もしたいほどしたいことなのかを自分に問いかけるということなんです。

それも、一度だけ欲するものではなく、永遠に欲するものだけを欲せよと、ドゥルーズは言っています。

「永遠回帰はカントの規則と同じくらい厳密な規則を意志に与えるのだ。…「君が為そうと意志しているすべてのことにおいて、「私はたしかにこのことを無限回に亘って為そうと意志するであろうか」と自問することから始めるならば、それは君にとってもっとも堅固な重心となるであろう。」


・「否定的なものは回帰しない。」

すべてが回帰するはずなのに、なぜ否定的なものは回帰しないと言えるのでしょう?嫉妬や妬みといった否定的なものは永遠には繰り返したくないですよね?確かに自分が成長するために、なんらかの否定を通して成長するということはありうるけれど、決して永遠には欲しない。それを永遠に繰り返すなら、一度の否定もないほうが明らかにいい。そのため、少なくとも私が為すすべての行為に関しては否定的なものが回帰するよう意志することはできない。


・回帰するのは同じものではなく、差異である。

永劫回帰というのはこの人生が実際に何度も繰り返されることではなく、永遠に回帰することを肯定できるような生き方のことなんだけど、それはどんな生き方だろう。例えば、芸術家がとてもいい作品を作り満足する。芸術家はまたとてもいい作品を作ろうと思う。では、芸術家はまったく同じ作品を再生産するだろうか?それではおもしろくないと思うのではないだろうか?今度はまた前回とは少し趣向を変えたりして新たなとてもいい作品を創りたいと思うのではなかろうか。これはたぶん、毎回、新しい何かを創造しているから、毎回、それが創造であるという点では同じだけど、創造されているものは違うから。ピカソは同じ絵を描かないし、その画風もすぐ刷新する。

2025年5月22日木曜日

気づきを与える映画10選

 私に気づきを与えてくれた映画10選


「メメント」ノーラン監督

記憶というものの意図的な裏切りについて教えてくれた。


「プレステージ」ノーラン監督

形而上学者の陥る罠について教えてくれた。


「ブレードランナー2049」

主人公の幻想について暴いてくれた。


「ドッグヴィル」

ニーチェにおける弱者の醜さを体現してくれた。


「ステイ」

他の映画が注目しないこだわりについて教えてくれた。


「関心領域」

関心によって、無関心さに気づかせるという手法があることに気づかせた。


「地獄でなぜ悪い」

映画への情熱だけで映画を作っていいことを示した笑


「空気人形」

「なぜ心が宿ったのかなんて神様でも答えられないと思うよ」のセリフだけでも存在の神秘の気づきが大きい。


「Wの悲劇」薬師丸ひろ子主演

入れ子構造の魅力に気付かされた。


「ウォッチメン」

神に反抗する仕方と、倫理的な対立とを象徴化しており、示された。

安部火韻にとっての映画best 10

「鉄男」(1989年、塚本晋也監督)

意味不明だが、映像だけでおもしろい。別の意味で説明不要。身体が機械に蝕まれ、鉄の男になるという謎映画。


「赤い靴」(1948年、英、パウエル&プラスバーガー監督)

アンデルセンの童話を再解釈したバレエの映画。赤い靴とは芸術である。一度、はいたら踊り続けるしかない。


「空気人形」(2009年、是枝裕和監督)

業田良家の短編漫画の映画化。「私は心を持ってしまった。」という空気人形。哲学的に、あるいは、詩的にハッとさせられるセリフが多い。


「ダークシティ」(1998年、プロヤス監督)

ゴシックSF映画。ある意味ではマトリックスの劣化版だが、カルト的な人気もあるらしい。


「ストーカー」(タルコフスキー監督)

作家、学者、案内人の3人が不思議な場所に向かうというもの。ひたすら、会話が観念的だが、なんか浸れる。


「イノセンス」(押井守監督)

ゴーストインザシェルの続編の劇場版アニメだが、映像の美しさと哲学的な内容で構成されている。


「ステイ」(マーク・フォースター監督)

サイコスリラー。特にシーンの転換のこだわりがすごく好き。夢を夢的に再現している。


「プレステージ」(2006年、クリストファーノーラン監督)

この映画を見て思ったのは、マジシャンは形而上学者であってはならないということだ。本物のイデアを求めるがゆえに悲劇は起こる。


「子供の情景」(2007年、イラン映画、ハナ・マフマルバフ監督)

子供を通して、戦争をとらえた映画。心に来る。


「ドッグヴィル」(ラースフォントリアー監督)

えぐい映画。神と人との関係の比喩に思える。


2021年に書いた好きな映画リスト↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2021/09/blog-post_15.html

2016年に書いた好きな映画リスト↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2016/06/blog-post_8.html

2025年5月17日土曜日

カント道徳論をゆるく応用する方法!?

 理性やらに意味がないと感じる人へ


私のカント道徳の解釈を部分的に、通俗的に、そして、《逆に》利用するなら、


なんとなくみんな流されて生きてきている。それでいいならいいけれど、そこでふと立ち止まって、どのような自分になりたいかを考える。自分を変えたいときもあるよね。


そんなときに、そこにほんの少しだけ理性的な要素を入れてみる。どうやってやるかというと、言葉ではっきり決めたらいい。


内容は例えば「楽しいことは絶対、我慢はしない!」とかでもいい。


で、それをどんなときでもどこでも誰に対してもこの標語を実行すると、楽しいことは絶対我慢しないような自分になれる。自分で自分の人格形成するというか。難しいときもあるけど、なるべく実行する。

そんなことを考えること自体が言語を持たない存在、例えば、動物にはなかなかできない要素なんじゃないかな。


カントなら、内容そのものも動機もすべて理性から導き出して「嘘をつくな」などの標語を自分の指針にし、いつでもどこでも誰に対しても道徳的な、そういう人間になろうとするけど、

めちゃくちゃゆる〜く応用するなら、カントが言ってたことからはかなり離れるし、カントや研究者たちからたぶん怒られるけれど、まあ、こんな提案ができるw

自由なテクスト批評は可能か?

それまでテクストは時代背景や作家の膨大な資料から批評的に読まれてきました。「作者は何を考えてこれを書いたのか?」というのが中心にありました。

しかし、確か20世紀初頭から、テクストだけから読み取るということが出てきました。

そのひとつの潮流がニュークリティシズムですが、他にもロシアフォルマリズムなどがありました。

いずれも、時代背景とか作者の意図とかではなく、テクストそのものから、読み取ろうとするような批評の流派です。

構造主義とか、精神分析とかも、実はこれらの流れと無関係ではありません。


何かを意図する主体があって、その主体がいろんな行為をするという近代哲学のモデルから、主体を脱中心化しようという動きです。


それが批評においてはそのまま作者と作品の関係にずらされます。

作品は作者の意図通りに作られて(書いて)あり、作者という創造者(神)の意図を理解することだけが作品を読むことなのか?


そうして、ついにそれが1967年ロラン・バルトの「作者の死」という論文に結実しました。

作者という神はすでに死んだと。作者が意図通りに書いた作品なんてものはもともと妄想みたいなもので、作品は作品そのもので自立しているのだと。


こうして読むということの自由度はあがり、デリダなどの自由な読み解きが流行りました。

デリダは、「テクストの背後に本物のテクストの意味がある」みたいなのを否定してたと思います。


それらは作者の意図からすると誤読と言われることもありますが、作品そのものを新たに刷新してしまう可能性をもったおもしろいものでもあるかと。

「作者の死」はミシェル・フーコーの1969年の評論「作者とは何か?(英語版)」(フランス語 Qu'est-ce qu'un auteur ?)に影響を与えたと言われ[10]、両論文は作者論の代表的な著作に数えられる[11]。wiki

ジャック・デリダはバルトの死に際して「ロラン・バルトの複数の死」(The Deaths of Roland Barthes)というタイトルの追悼文を書いた[12]。wiki

しかし、ある名大のドイツ文学の教授がトーマスマンやアドルノを参照して曰く、

テクスト批評から歴史的な文脈や作者というものを剥奪するのは、特にドイツ文学の深層には神秘主義や至高のものを目指そうとする精神があって、それがナチス的な精神にも通じてしまうから、それを恐れて懸命に否定しようとしているのではないか?と言っていた。

また、戦後のドイツ文学は長いこと戦争やホロコーストの悲惨さを訴えるような暗いものが流行ったが、それはこうしたことと無関係ではない、と。

 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」アドルノ