2022年12月23日金曜日

パリピ文化!? ハロウィンより酷いクリスマスw

クリスマスは厳かに過ごすべき??

クリスマスとは、キリストのミサ(礼拝)を意味している。

イエス・キリストの誕生を祝う日だと。(ただし、よく誤解されるがキリストの誕生日ではない。)

そして、それゆえにクリスマスが世俗的・商業的すぎる、特に日本ではキリスト教徒でもない人がなぜクリスマスを?などと批判されたりする。

そういう人は、最近のクリスマスとは違って、本来のクリスマスはキリスト教徒が厳かに神を讃える宗教的な典礼の日なのだと思っているようだ。

だが、それは本当だろうか??

今日は次の本を読んでおもしろかったところを紹介してみようと思う。

「クリスマスの歴史 祝祭誕生の謎を解く」ジュディス・フランダーズ/伊藤はるみ 訳



キリスト教徒に敬遠されるクリスマス!?

実は驚くべきクリスマスの真実があった。

313年にキリスト教がローマ帝国でコンスタンティヌス大帝によって公認され、その後、ユリウス二世(337~332)がキリスト降誕を12月25日に祝うようにと布告が出る。

これがクリスマスの始まりとされている。

そして、記録では389年に死去したコンスタンティノポリス大司教、ナジアンゾスのグレゴリオスが生前、聖なる祝日にダンスをしたり、過度に飲食したりすることを戒めている。

これは何を意味しているのだろうか?

わざわざ戒めるということは、戒めを受けるほど、人々がダンスしたり過度に飲食して騒いでいたからなのである。

つまり、クリスマスはそれがローマ帝国で制定されてから少なくとも30年以内には、すでに暴飲暴食やダンスにふける世俗的なイベントとして楽しまれていたのである!

その後も、何度も教会はクリスマスの過度な祝宴を戒めようとするが、そのたびに人々が戒めを受けるほどクリスマスに騒いで羽目を外していたというのがわかる。

とりわけ厳しく禁止されたのは、時代は飛んで、16世紀のイギリス、ちょうど清教徒革命の前後のことだった。イングランドやスコットランドの厳格なキリスト教徒、プロテスタントの清教徒(ピューリタン)たちはクリスマスを祝うことを禁止しようとしたのである。

彼らがクリスマスを非難する理由は、

ひとつは人々のクリスマスの祝い方が度が過ぎるし、

もう一つはやはりイエス誕生がクリスマスであることについて聖書にはどこにも記述がないからだ。

それから、クリスマスはカトリックのでっちあげた迷信の行事、元は異教ユールの日だという見方をしていたからとか、

クリスマスは聖人を記念する祝日だが、プロテスタントは聖人を人と神との仲立ちをする役割として認めていないといった理由もある。


16世紀のスコットランドでは、「クリスマスソングを歌うこと、サッカーをすること、仮面劇や無言劇をすること、歌ったり踊ったりすることはすべて不敬だとして禁止された。とはいえ、それらを禁ずる布告がたびたび出されているということは禁を破る者が多かったということだろう。」47頁

実際、1561年、スコットランドの清教徒、長老派教会はクリスマスのすべての行事を禁止し、多くの人がクリスマスを祝った罪で有罪となり、破門されたりしているケースまで存在する。


隣のイングランドの清教徒たちは少数派だったのでクリスマスを非難はするが禁止することまではできなかったが、その多くがアメリカに移住するので、そこで初期のころはクリスマスを禁止しようとしていた。

初期から清教徒が多く入植していたアメリカのマサチューセッツでは、1654年、マサチューセッツ湾植民地裁判所が、クリスマスに仕事を休んでお祭り騒ぎをした者、あるいはどんな方法であれその日を祝った者には5シリングの罰金を科すと定めた。(ただし、実際に罰金を払った例はなかったらしいので、体裁だけだったらしい。)

「清教徒の牧師インクリーズ・マザーは「いわゆるクリスマスというものは、飲酒と賭け事と狂気じみた馬鹿騒ぎのことだ」と教会に集った人々に語り、「飲酒」という言葉を念入りに繰り返した。」74頁

このようにクリスマスに眉を顰めるキリスト教徒も多くいたのである。

続いて、実際にクリスマスにはどのようなパリピたちがいたのかを見ていこうと思う。

2022年12月14日水曜日

外国語学部に行く意味はあるか?

たとえば、

既にスペイン語がネイティブレベルなのに、外国語学部でスペイン語学科に行くのは意味がありますでしょうか?




それは、その意味が何かによると思われます。


例を挙げるとわかるかもしれない。

勉強しなくても、首席で卒業できるという意味とか?

周りの学生や先輩に在学中マウント取りつづけられるという意味とか?

大学によっては飛び級できる。

すでにスペイン語ができるので、スペイン語学習のいくつか授業をとらずに文法など弱いところだけ究め、ゼミでスペイン語を第二言語習得論として、速攻で取り掛かり、ハイレベルのスペイン語の卒論が書ける。


文法というか、スペイン語教師として必要な科目を取ったらかなり意味はありそう。

日本人も日本語はかなりできていても、日本語教師としての科目を勉強しなければ、日本語を外国人に教えることが難しいように。


どういう意味を求めているのか??


狙いは、スペイン語がうまくなりたい女子大生かもしれないしw

外国語学部に入った理由がそれの男性はまあ正直いると思うw


逆に、それ以外の人にとっては本当に意味があるのだろうか?


大学に学びにきてる人少ないから、ほとんどの人は大学そのものがあんまり意味がないように思われる。

大学でスペイン語を専門的に学んでそれを社会で活かす人もかなり少ない。


そういうわけで、

ある意味、意味はあるし、ある意味、意味はないw


ここから、個人的な話をしますが、

2022年12月13日火曜日

ニーチェの深淵と怪物、そして私

 “Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, daß er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.”


「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」『善悪の彼岸』ニーチェ





ニーチェのこの言葉は、どこかアニメやラノベで使われたのか、なぜか知られている。


この言葉について考えてみようと思う。

これはニーチェ自身の自戒の言葉かもしれないと思う。

ニーチェは既存の道徳がルサンチマン(復讐心)に塗れているものだと指摘した。

しかし、既存道徳の怪物と闘い、糾弾し非難するニーチェ自身がルサンチマンに塗れた怪物だったのだ。

そうならぬよう注意せよということなのだろう。

何かと対立する時には、大抵、自分自身がその何かなのである。


「仏に会っては仏を殺せ」

「では、この中で仏に会ったことあるやつはいるのか?街に出れば仏には会わない。自分自身に出会う。そしたら、自分を殺せ。」岡本太郎


では後半の文章のみに注目するとどうだろう?