2023年11月24日金曜日

ルッキズムへの嫌悪する心はきれいか?

 ルッキズムへの嫌悪について。

容姿第一に考えている人が多すぎる。容姿ではなく、もっと心を評価すべきだ、という意見について。



私も、心が最も大事とは思います。

しかし、見た目もまた心に作用します。心とは総合的なものなのです。

臭いにおい、醜い顔、ゴキブリへの嫌悪など、生理的な嫌悪などはどうしようもない。



最近思うのは、心と肉体とが基本的にはひとつだと無意識に思われているのではないかということ。

「人は見た目が9割」という新書を見かけましたし、

また、年数が経つとよく笑う人は笑顔に、よく怒る人は怒った顔になると聞きます。これはまた心が行動に、行動が顔に表れてしまったのではないでしょうか?

まあ、見えるものは肉体なので、最初はそれで判断するしかないし、心が肉体に表れているというのも部分的にはあるのかとは思います。

しかし、例えばホームレスの容姿、地位、お金がない、臭いなどなどの嫌悪から、ホームレスは堕落しているとか、ホームレスは虐めてもいいなど酷いことが言われたり、実際にいじめがあったりもしますね。それはよくない。

しかし、それだけで判断するのはとても未成熟ですね。


心とはなんでしょうか?

心は見えませんね。

いろいろな諸条件から総合的に判断するしかない。

それは言葉?行動?

相手の言葉によって、判断しようとしても、嘘がつけます。

相手の行動によって判断するなら、長い付き合いが必要です。

そうすると、今までの行動としての経歴や長く付き合ってきた周りの人たちからの評価とかになってきたりしますね。

それでもわからない。


私としては、容姿だけを特権化しないで、すべてを含め総合的な評価が良いのかなと思います。


ここであなた自身の心に戻っていきます。

あなたが心を大切にするなら、醜いものを避け、見目麗しいものを好むという相手の心のことは大切にしないでいいのだろうか?

容姿はたまたま生まれてきた時、持ち合わせていた容姿がそれだったのでしょうが、心もまた、たまたま生まれてきた時持ち合わせていた心がそれだったのかもしれません。

そうした見た目なりで判断する人たちがいても、容姿の評価軸すべてを切り捨てるのも、見た目で決める人たちの心がわからないと切り捨てて、自分はそれとは違って心がきれいだなどと無意識に思うことも、また同じくらいに低劣だとは思いますね。

わかり合おうとしないなら。

2023年11月7日火曜日

お金か時間か?


 人生で大切なものについて取り止めもなく書いてみる。


人生で1番大切なものは時間かな


「人生の苦労を持ちこたえるには三つのものが役に立つ。希望・睡眠・笑い。」カント


なんであれ、ポジティブなのは悪くない。

とにかく、今従事しているそれを楽しむことが大切。

先日、参加した舞台の主催者は、逆境を楽しむ人でした。

本番前の集合時間に俳優がひとり来なくて、みんなでその穴埋めをどうするかを相談する時、「楽しくなってきたぁ!!」ってテンションあがってました。


時間があることが大切ではなくて、その時間をよく生きることが大切かな。


「時は金なり」

時間を金に変換している人が多い。

時給。


時間がなければ自由ではない。

自由でなければ、時間に意味がない。


自由を能力とも言い換えられますか?それを自分でできるようにするための力。


青年は、時間はあるが、能力も金もない。

中年は、能力も金もあるが、時間がない。

老年は、時間と金はあるが、能力が衰えてない。


逆に、金がなくて死んだ人も多い。

レクサスの新型モデルの工場の現場に入った若い派遣が、公開前のそれをSNSに写真であげてしまって何億もの賠償責任となり、その子は自殺、派遣会社の社長も自殺したという事件があったとか。


リストラや借金地獄で金の重みに耐えきれず死ぬ人も多い。


逆に10億もの借金を抱えていても飄々と生きていられるDJ社長もいる、


死はいずれ来るという意味では平等だが、

いつ来るのかは平等でない。

死が時期的に平等に来るのは、地球が死滅する時。

公平でもない。


“They say the good die young”

「善人は早死にすると言われる」


死もまた、金持ちには優遇する。清潔で遅く安らかに多くの人に見守られてやってくる可能性が高い。

貧乏人は孤独に汚く苦しみつつ死ぬ事例は多め。もちろん、いつもというわけではないが。


単純に衛生観念、病院にかかる回数、病にならないための日頃の生活水準の維持、そもそも健康に関する知識の差などなどから、総合的に差が開いてくる。


多くのことは意識を高く持てばお金なくてもできる。


しかし、お金がないと、お金に意識を向けなきゃならないから、それが疲れるよね。


お金持ちでもお金に囚われていたら、本質を見失い、お金の心配に振り回されてしまう、それはお金持ってるのに、貧乏な精神。


貧乏人は、お金がないことによって、よりお金を意識し、お金を追い回し、他の大切なことが見えなくなる。


お金は大事だけど、お金は1番ではなく、

お金があることと、お金より大切なものがあるという意識によってお金から”自由”になることが大事。

2023年11月4日土曜日

純粋理性批判の翻訳の定番はあるのか?






 質問: 純粋理性批判の翻訳の定番はあるのか?


研究者でなければ、誰の訳でもよいよ。そして、研究者なら、全ての人の訳を買い、ドイツ語を読めと言われるw


“transzendental“の翻訳は「先験的」か「超越論的」かで研究者も分かれている。「超越論的」のほうが優位にあるが。


質問: 岩波のはあまりよくないとか?

まあ、確かに、篠田訳は誤訳多いとは言われます。


わかりやすいと言われるのが、中山元の訳ですが、分かりやすくすると厳密性が失われやすくはなりますね。


天野貞祐訳もさすがは一生かけて訳しているだけあって、評価は高いですね。

(大学時代に、図書館でこの天野貞祐訳の本を借りるも、無くしてしまい、仕方なく弁償しましたが、後に見つかりました。冒頭の写真はその本。)


個人的には高峯訳がよかった。


定番はない、かな。


しかし、翻訳における有名な別れどころは、あまり重要ではなく、原語になっちゃいますね。

「先験的」だろうと「超越論的」だろうと、“transzendental“に頭で変換されてしまう。


むしろ、文構造や代名詞が指すものや意味解釈の誤訳のほうがやばいので。


「あれここ変だな」って思ったら、大抵、カント自身がやばい文章書いてるので、いろんな訳を参照したり、二次文献やコメンタール読んだり、原典や英訳にあたったりして、徹底的に追求するか、些末だと判断して無視して先を読むか。


結局のところ、

最初は、とりあえず、自分自身にとって手に入りやすく読みやすいやつが1番と思います。やはり中山訳かな。

一回読んだら終わりというものではないですし。正確だろうと挫折したら意味ないので。

中山訳でなかったら、図書館や書店でペラペラめくって自分に馴染むやつ…私の場合は天野貞祐でした。当時はまだ中山訳出てなかったし、高峯訳より前に読んで愛着が湧いてしまった。

こちらは純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判の3つが一冊になっている稀有な本。もちろんドイツ語。

なんで一冊にしたんだあああああ!



2023年11月3日金曜日

セザンヌを理解しよう。

これから言うことは反発を招くかもしれませんが、美術において、今では評価されているという理由で酷評することが禁止され、美術史に残っているから素晴らしいものなのだろうという前提でしか物を見れないならば、今後もノスタルジーに浸るばかりでもはや発展はないと思います。


セザンヌやアンリルソーで理解しなければならないこと。それは、彼らは絵が”下手”だということです。


私は喧嘩をしたいわけではなく、ちゃんと理解したほうがより味わいが深まる点を美術史を踏まえて述べたいので、ぜひこの先もお読みください。


セザンヌの絵画は、絵画を実際に描いて勉強するとわかるのですが、美大の試験に落ちます。「質感が全部一様で違いがないし、パースも取れていない」みたいに言われてしまいます。




実際に、セザンヌの絵を見てみましょう。ぜひ、実物を見てください。

単純に、セザンヌの絵を見ると、

布が布としての質感があるか?ない。

植物が植物としての質感があるか?ない。

林檎はましですが、基本的には一様なマチエルです。

パースがとれているか?とれていない。例えば、林檎の絵を見たら、落っこちそうである。

それがセザンヌが下手な理由です。


しかし、ピカソやブラックはそこに注目したのです。

ピカソは、「こんな下手な絵はどうやっても俺には描けないよ、逆にすごい!」と言って、アンリルソーやセザンヌの絵を積極的に取り入れました。


ピカソは子供のころから、上手い絵を描き、老年になってようやく子供のような絵が描けるようになったと喜んでいます。


逆転の発想!

サロンでは決して評価されなかったセザンヌとアンリルソー。


下手だと言うと、反発があるかもしれませんが、下手で他の誰からも見向きされなかったからこそ、ピカソたち天才に取り出されてこれはむしろすごい、とても異質で良いなという評価があったのです。

そして、それだからこそ、美術史には残るのです。単純にめちゃくちゃうまかった画家、例えばアレクサンドル・カバネルの作品は当時は絶賛されましたが、今では知っている人の方が少ない。

アレクサンドルカバネルはパースや質感に関してはしっかり描けているけれど、特に新たな観点もないので、美術史には残らないのです。


しかし、セザンヌはそういうことに関しては下手だったけれど、それゆえにこそ今まで上手い人たちが気づかなかった素晴らしいことに気がつかせてくれた。絵は現実ではなく、絵なのだから、質感が現実的でなくてもよいのだ、パースが狂っていても良いのだ!むしろ、それは絵にしかできない!!

キュビズムやフォービズムの誕生です。

私はセザンヌについてそこがすごいところだなって思ってるのですが、あなたはどう思われますか?


2023年11月2日木曜日

恋の幻想性を越えて




「コイって言うから、アイに来た。」


「恋は下心である。愛は真心である。」などと言われる。

恋は幻想である。では、愛は現実であるか?

恋は幻想である。愛も幻想である。

そして、言語で表せるすべてのものは幻想である。

しかし、すべてが幻想なら、その幻想そのものが我々が言うところの”現実”を作っている。


ただ、恋は恋に落ちてない者にとっては非現実味を帯びているものだから、その幻想性に気付きやすい。


夢は起きるから、それが夢だとわかる。だが、それは覚めた者から見た視点なのだ。


では、夢を見ながらにして、起きることはできるだろうか?


「心の損得を考える余裕のある自分が嫌になります」宇多田ヒカル『君に夢中』


最近では、目の前が見えないほどの情熱的な恋はなかなかない。みんな諦めている覚めている悟っている、恋は幻想なんだって。


恋は幻想だと思うことで、相手に踏み込むことなく、自分が傷つかないようにしているようにも見える。


もちろん盲目的な恋は危険だが。


しかし、勇気は出すべきではないのか?

恋に落ちた今の現実を生きるべきではないだろうか?


しかし、私だけの問題でもないのだ。恋愛には相手がある。

相手との関係性、それをどう築きあげていくのか?


恋の幻想性とは、ひとつの元型的な物語である。ロマンとは、元は長編小説を意味する。

物語にはいろいろあるが、典型的なのは、私を主人公とした物語の登場人物として相手が現れ一目惚れするというものだろう。

それは私の物語における登場人物に過ぎないが、しかし、だからこそ特別な存在になる、お姫様とか、運命の人とか。

偶然の産物が”物語”として必然化される。ロマンの誕生である。


そのロマンに相手に関わってもらう。相手という存在が自分にとって必然化されていく。


しかし、それが終わりではない。幻想としての恋が終わるところに、相手への本当の終わりなき理解の試みが始まる。


相手の欠点や醜いところ、自分とは合わないところも出てくる時、それをどう受け入れるのか?

そこに恋が愛に変わるポイントがあるのだろう。


相手への理解には終わることがない。しかし、相手を完全に理解したと思ったところに愛も終わりが来るかもしれない。


愛とは理性的な行為だろう。

好き嫌いには還元できない。好きなところも嫌いなところも含めて相手を相手として受け入れつつ、自分のことも認めてもらう相互関係に現実性がある。

2023年11月1日水曜日

笑う角には悪魔来たる

笑いとは、なんだろうか?

 おそらく、危険性(いじめ、差別、からかい、攻撃)と笑いとは常に紙一重に接している。

常に、笑いはこれ言ったらあかんやつを言って、それを冗談だと誤魔化すことでギリギリ攻撃性を隠してきた。

これが笑いであるという文脈に入れない人、攻撃対象それ自身に自分が当てはまる人、クソ真面目な人が不愉快になると、笑いの攻撃性が露呈し、悲惨なことになる。

これが喜劇から悲劇への転落。

悲劇から喜劇への逆転を行うのが映画「ジョーカー」🃏

「幼い頃、私が将来はコメディアンになると言うとみんなが笑った。しかし、コメディアンになった今、誰も笑ってくれなくなった。」映画『ジョーカー』より

→これから俺がおまえたちを笑う番だ!

こうしてジョーカーは誕生する!

笑う側は、(無意識のうちであっても)笑われる側を傷つけているから、笑われる側からするとどうしても悪魔に見える。

意識的に笑うなら真の悪魔たるジョーカーだが。