エンペイリア(経験)とエピステーメー(学問)との関係
経験について、アリストテレスの「形而上学」の冒頭から説明しようと思う。
まず、なんらかの感覚がある。
すき焼きを食べる。その色とか、その匂いとか、その形とか、それを焼く音とか
しかし、感覚だけでは経験とは言えない。
続いて、その感覚の過去のものを保持しておくもの、つまり、記憶がある。
あのときの色や形や匂いや音を凝縮して「すき焼きを食べた」というひとつの出来事にまとめ、「あのときすき焼きを食べて美味しかったな」と。
しかし、記憶だけでもまだ経験とは言えない。
そのうちに「これこれのときにはこういうふうにするのが良いのか!」という何らかの意識的な気づきがある。これが経験である。
「すき焼きにはやっぱり牛肉の新鮮さが大切」とか
そして、そのエンペイリア(経験)を介して、人はテクネー(技術)とエピステーメー(学問)とを身につける。
技術とは、経験から似たような事象を見つけて、一つの普遍的な判断が作られるときである。
経験とは、個々の実際の場合における判断を可能にするものである。
しかし、確かに経験から技術は得られるが、技術は、「すべてのこれこれに対してしかじかの処方が効く」というようなものであって、その経験がなくとも概念的に原則が得られているなら、それでもよい。
それ故、医者になる者は実際にさまざまな治療にあたることで医者としての技術を磨くものの、それ以前に医学書でこれまでの知見をすべて踏まえる必要がある。
医学書の知識なしにいきなり人体実験からはしないのである。
歴史もまた同じである。歴史は学問であるが政治技術としても使える要素がある。政府は自分達の個々の個人的な例えば経営経験に基づいて政治を行い、それで国家で失敗すると大きな被害を被るが、その前に歴史で似たような事例をたくさん知っておくことで、歴史上の失敗をなるべく繰り返さずに済む。
そしてまた、経験家は「ものごとがそうある」という事実は知っているが、「なぜそうあるのか?」については知らない。
それゆえ、経験だけの人は「その場合にはこうすればよい」ということは言えても、「なぜそうするのか?」ということについては人に説明できない。
しかし、技術がそれが技術であるならば、その原因、および目的、本質(形相)、素材(質料)を探究し、知っていなければならない。
そして、そうした技術は大抵は何らかの生活の必要のためのものであるが、生活に必要なものが大体揃えば、今度は今まで得た知をより深めようと、さらに深いが故にもはや生活に必要でない領域に対しても「知りたい」と探究されることがある。
そして、この楽しい暇つぶしがエピステーメー(学問)である。
しかしながら、アリストテレスは学問は生活の役に立つものでないからこそ尊いのだと言う。
なぜなら、そうした知が生活の役に立たないのは、知が生活のための道具ではなく、知そのものが目的だからだ。
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