2023年8月23日水曜日

経験から学問へ -アリストテレスのエピステーメー-

 エンペイリア(経験)とエピステーメー(学問)との関係

経験について、アリストテレスの「形而上学」の冒頭から説明しようと思う。


まず、なんらかの感覚がある。

すき焼きを食べる。その色とか、その匂いとか、その形とか、それを焼く音とか

しかし、感覚だけでは経験とは言えない。


続いて、その感覚の過去のものを保持しておくもの、つまり、記憶がある。

あのときの色や形や匂いや音を凝縮して「すき焼きを食べた」というひとつの出来事にまとめ、「あのときすき焼きを食べて美味しかったな」と。

しかし、記憶だけでもまだ経験とは言えない。


そのうちに「これこれのときにはこういうふうにするのが良いのか!」という何らかの意識的な気づきがある。これが経験である。

「すき焼きにはやっぱり牛肉の新鮮さが大切」とか


そして、そのエンペイリア(経験)を介して、人はテクネー(技術)とエピステーメー(学問)とを身につける。


技術とは、経験から似たような事象を見つけて、一つの普遍的な判断が作られるときである。

経験とは、個々の実際の場合における判断を可能にするものである。


しかし、確かに経験から技術は得られるが、技術は、「すべてのこれこれに対してしかじかの処方が効く」というようなものであって、その経験がなくとも概念的に原則が得られているなら、それでもよい。


それ故、医者になる者は実際にさまざまな治療にあたることで医者としての技術を磨くものの、それ以前に医学書でこれまでの知見をすべて踏まえる必要がある。

医学書の知識なしにいきなり人体実験からはしないのである。


歴史もまた同じである。歴史は学問であるが政治技術としても使える要素がある。政府は自分達の個々の個人的な例えば経営経験に基づいて政治を行い、それで国家で失敗すると大きな被害を被るが、その前に歴史で似たような事例をたくさん知っておくことで、歴史上の失敗をなるべく繰り返さずに済む。


そしてまた、経験家は「ものごとがそうある」という事実は知っているが、「なぜそうあるのか?」については知らない。

それゆえ、経験だけの人は「その場合にはこうすればよい」ということは言えても、「なぜそうするのか?」ということについては人に説明できない。


しかし、技術がそれが技術であるならば、その原因、および目的、本質(形相)、素材(質料)を探究し、知っていなければならない。


そして、そうした技術は大抵は何らかの生活の必要のためのものであるが、生活に必要なものが大体揃えば、今度は今まで得た知をより深めようと、さらに深いが故にもはや生活に必要でない領域に対しても「知りたい」と探究されることがある。

そして、この楽しい暇つぶしがエピステーメー(学問)である。

しかしながら、アリストテレスは学問は生活の役に立つものでないからこそ尊いのだと言う。

なぜなら、そうした知が生活の役に立たないのは、知が生活のための道具ではなく、知そのものが目的だからだ。

関連記事:アリストテレスで考える万年筆の有用性↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2020/09/blog-post.html

2023年8月22日火曜日

差異と同一性、そして多様性

 同じことは同じだが、違うところは違う。という同語反復(トートロジー)(最近では小泉構文というらしいが)

世界中にマクドナルドがあるから、世界の多様性がないと言われたりする。

しかし、マクドナルドという点では同じだが、そのマクドナルドには地域性が完全にないほど同じかというとそうでもない。

アメリカのほうが日本よりパティが大きかったりして、そういう違いが出てくる。

それも、マクドナルドによって浮き彫りになる地域性のひとつだろう。


かと言って、その程度の差異に着目して多様性が保たれていると言うこともできない。

やはりそれらはどこにあろうと地域性があろうと同一のマクドナルドである。認知として同一のものとされる傾向が強い。


世界中をマクドナルドだけでなく、バーガーキングとモスバーガーとロッテリアの四つが席巻したとしても、こう言われうるだろう。

「世界がファストハンバーガー屋ばかりで多様性がない。」と

多様性ってなんなのか、複数あるから多様ではないのか?


しかし、ここに吉野家とすき家とまつやとを追加しても同じだ。

「世界がファストフード店ばかりで多様性がない。」


逆に静岡県に限定して考えよう。

さわやかハンバーグばかりで静岡県内での多様性がないといえるかもしれない。

しかし、この統一感によって静岡県のブランド力となる。静岡県の特色と。

それが全国的に展開されると、日本といえばさわやかハンバーグになるかもしれない。日本の特色と。


ある人が私に同意すると、その人と私の意見が同一ということになるが、そこにまったくの差異がないかというとそうでもない。掘り下げていけば差異は明らかになる。


マクドナルドがもはやアメリカのものというより、世界中のものという認識になれば、それはもう国民性ではなく、人類性?



選択の多様性において

傘には非常にさまざまな種類の柄がある。それは確かに多様である。

しかしながら、例えば、すげ笠や蓑という選択肢は残されていない。ほとんどは西洋の傘しかない。

まあ、レインコートもたまにあるけれど、ほとんどは傘の一択☂️

それがマクドナルド。マクドナルドにも地域性があるからといって、マクドナルドだけで良いというわけでもない。


そしてまた、マクドナルドという選択肢がいつもあるのは、その選択肢があるから選択され、選択されるからその選択肢がある。ということだろう。


そして、問題は人が金を使う配分である。

金がないわけではない貧乏人において、

食事に金を使いたいという人はマクドナルドは、チェーン店はあまり選ばない。その代わり、服はユニクロやGUかもしれない。車は軽かもしれない。


服に金を使いたいという人は、ユニクロやGUは選ばない。その代わりに、食事はマクドナルドや吉野家、車は軽かもしれない。


車は軽は嫌だという人は…


このような形で、金持ちではない人は金の配分をこういう形にすることが多い。自分としてはそこまでこだわりはないけれど、必要なものは、便利で安くて手軽なものに限る。

すると、便利で安くて手軽なものを作る企業が増えるのだろう。コンビニとは便利という意味だから。


国家は、常に国家化し続け、同時に脱国家化し続ける。

マクドナルドは、常にマクドナルド化し続け、同時に脱マクドナルド化し続ける。

同じものは同一化し続け、同時に差異化し続ける。


2023年8月18日金曜日

永劫回帰か?万物流転か?

 全ての現象は一回こっきりとも言えるが、全ての現象は何度も起きているとも言える。


例えば、🎲

サイコロをふって、一の目が出た。

もう一度サイコロを振って、また一の目が出た。

最初に出たサイコロの目は次に出たサイコロの目と全く違っているわけではないが、微妙な点で違っている。

「違い」というものは「同じ」土台の上でしか認識できない。

理性はその「違い」と「同じ」を見極める力である。

「サイコロの目はともに一の目である」という点では、両者は全く同じである。

しかし、同じサイコロの一の目であるからこそ、両者を比べて微妙な差異を見出すこともできる。


一切は同じだ。

一切は異なる。

それは同じもののふたつの側面について言っているだけなのだ。


ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスのときから言っていることだ。

「同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。」

2023年8月17日木曜日

ビッグモーターとマルクス主義

質問: マルクス的視点から見て、ビッグモーターの問題はどのように解決されるべきと思いますか?


そもそも法を守っていないブラック企業に対しては、マルクス主義うんぬん以前に資本主義においても良しとされない。


ビッグモーターは顧客に対し、事故の形跡がある車を隠して販売した。


ビッグモーターは顧客の車に穴をあけて損害保険会社に保険金を不正請求していた。


ビッグモーターは公共の場所に対し、除草剤を労働者にまくよう指示した。


ビッグモーターは労働者に対し不祥事にかこつけて給料を払おうとしなかった。少なくとも遅れていた。


これらが法を守っているとは言い難いと思います。ただ、私も法律にそこまで詳しくないので、詳しい方いればご指摘ください。


逆に言えば、資本主義だろうとマルクス主義だろうと、そもそも法を守らない人がいれば、どんな仕組みの社会だろうと成り立たない。


法を遵守しているのに、賃労働において問題があって、それを解決しようとするひとつの方法がマルクス主義であって、そもそも法を遵守していない企業は、問題とならない。

2023年8月15日火曜日

学生時代にやっていたラカン読書会

「 他人の眼差し」という概念への注目は、フランスの哲学者サルトルから始まったのかなって感じがします。

その後、ラカンによって精神分析の基本概念のひとつとなり、レヴィナスの「顔」となる。


思えば、学生時代にラカン読書会を開いたとき、無償でしてくれた指導教官はサルトル研究の教授でした。


ドゥルーズにハマっていた学生と、カントを勉強してた私と、サルトル研究の教授、3人合わせて文殊の知恵w


ラカン読書会ではフランス語とドイツ語と英語参照しながら、エクリを読んでいた。

ある日、ある一文に何十分も費やしたあげくに、

「あ、これただのギャグかよw」

ってなったことがありましたw

フランス人が聞いたらこれぞ日本人の典型だと馬鹿にされるような話ですw


〉それって、最優秀インテリさん揃って、江戸時代に杉田玄白等が解体新書訳してたときとおんなじかもしれません。

杉田玄白たちは、解体新書を翻訳するとき、顔の真ん中で隆起しているもの という記述を、不完全な辞書でようやく単語調べて、これなんだろう、、と散々悩んで、「鼻」かよ、てなったような話があります。日本語と西洋語の関わりはそんな感じで始まったようです。


ラカン読書会にいそしむこの3人は当時、非モテ・インテリでしたのでw

解体新書は身体についてでしたが、我々は精神についての解体新書とも言うべきもので、

こうして、高い鼻👃がへし折られ、我々の精神が解体あるいは分析されたわけであります。