私が本当にしたいことは何か?
私が私自身になれているか?
私自身になることを諦めて、人生、我慢してないか?
実は、そういうことを前期ハイデガーは問いている。と私は思いました。
来世を信仰する宗教においては、今現在、私が満足しているかどうかは関係なく、それを来世に先延ばししてしまう。
キルケゴールは、この来世への先延ばしが約束されないということを絶望と表現しました。
絶望こそが、死に至る病です。
来世を約束されているならば、死んでも、死には至らないわけですが、絶望とは、来世を約束されないことを意味します。だから、キルケゴールは死に至る病は絶望であると言いました。
来世を信仰する宗教は、今も、無宗教者と言われる人たちに、より悪い形で蔓延している。前期ハイデガーはそう読み取っているようでした。
それは「今はまあまだいいか」「こんなもんでいいか」という先延ばしよりひどい精神です。
みんなそういう言い訳を自分にして、なんとなく大衆に流されて、本当はやりたくもないことをなぜかとりあえず中途半端に嫌々やるハメになっている。
それを前期ハイデガーは言及していて、将来に来る死を自覚することで、絶望し、絶望することで、なら、今しか私が私自身になる時はない!という意味で、本来的な自己に至るきっかけになるのだと考えました。
キルケゴールは絶望と言ったが、ハイデガーは死への不安と言った。
そして、その不安は沈黙という良心の呼び声を生じさせる。
それは沈黙なのだが、「本当にやりたいことをあなたは後回しにしてない?本当にそれでいいの??」という呼びかけなのである。
そんな感じで読みました。