2018年11月17日土曜日

「アイ・フランケンシュタイン」と「失楽園」、そして「フランケンシュタイン」

「アイ・フランケンシュタイン」という映画があるが、ご存知だろうか?

「アンダーワールド」のスタッフによって作られた2014年のアクション映画で、ヴァンパイアと狼男をモチーフとした「アンダーワールド」がヒットし、続編も創られたのに対し、フランケンシュタインをモチーフとしたこの映画は興行収入が振わなかった。内容がおもしろくないせいである。

実際に私はこれを見てみたのだが、確かにおもしろくない。筋もあまりそそられないし、アクション映画、映像として、何かが足りない。しかし、今まであまり描かれてこなかった観点が描かれている。ここではそれを説明したい。

映画のあらすじを説明すると、
かの原作の「フランケンシュタイン」では、名のない怪物は自殺をほのめかす言葉を残して闇夜に消えて行ったという終わり方をしているのだが、「アイ・フランケンシュタイン」では、その続きを現代に至るまでその怪物は生きていたという仮定で描くのである。その上で、悪と戦う天使としてのガーゴイルたちと、堕天使である悪魔たちとの争いに巻き込まれるという展開になっている。


 みなさんは、どうしてフランケンシュタインが科学の力によって創った怪物が天使と悪魔の争いに巻き込まれなければならないのか疑問に思うのではないだろうか?


 実は原作では、怪物がフランケンシュタインと話をする場面で次のような台詞がある。

「いいか、おれはおまえに作られたものなのだぞ。おれはおまえのアダムであるはずなんだ。ところがどうやらおれは、おまえにとっては、堕落した天使らしい。なんのとがもないのに、おまえはおれを喜びから追放するのだから。どこでしあわせを目にしても、おれだけは永久につまはじきにされているんだ。おれは善意をもった善人だった。おれが悪魔になったのは、ふしあわせのためなのだ。おれを幸福にしてくれ、そうすればまた品行正しい人間に戻るから。」(臼田

名のない怪物は、聖書における創世記を壮大に描いたミルトンの「失楽園」を読んでおり、そのために、このような台詞を吐いたのである。

ウィリアム・ブレイクによる「失楽園」の挿絵
ジョン・ミルトンの失楽園は1667年にイギリスで書かれた初期近代英語の叙事詩である。おおまかに説明すると、神に反逆を企てた天使ルシフェルは、堕天使、つまり悪魔サタンとなり、神に戦争をしかけるが敗北する。そこで、神の最愛の存在である人間に罪を犯させるように仕向け、ついに最初の人間アダムとイブは貶められ、神によってエデンの園を放追させられる。という物語である。

映画ではこの「失楽園」を「フランケンシュタイン」とリンクさせたのである。さらに映画では、原作では名前のつけられていなかった怪物に「アダム・フランケンシュタイン」という名前までつけている。この映画の脚本を書いたケヴィン・グレイヴォーは、フランケンシュタインの原作とミルトンの失楽園との関わりについて調べていたに違いない。

原作「フランケンシュタイン」においては、次のような怪物の独白がいくつかある。
おれは苦悩のあまりに絶叫した。『呪われたる創り主よ!なぜおまえは、自分でも嫌悪を感じて顔をそむけるほど、それほど醜い怪物を作ったのだ?神は、あわれんで、人間を美しく、魅力的に、ご自身の姿に似せてお創りになった。だのに、おれはおまえの姿にきたならしく似せられてあり、似ているからこそ、いっそう恐ろしくさえある。セイタンには、悪魔同士のつれがあり、賞賛や激励を与えてくれた。が、おれは孤独で、毛嫌いされているのだ。』(臼田、セイタン=サタン)

怪物は、「失楽園」におけるアダムやルシファーと自分自身とを比較しているのである。まとめると次のようなものである。

ルシファー:仲間とともに創造主に反逆する。
怪物:ひとりぼっちで創造主に反逆する。

アダム:伴侶がおり、創造主の似姿であるため、 美しい。
怪物:伴侶がなく、創造主の似姿であるが醜い。

アダム:死すべき存在であることを知り苦しむ。
怪物:死を恐れるが、それよりも、醜く生まれたために孤独であることに苦しむ。

アダム:創造主に愛されている。
ルシファー:創造主に愛されていないと感じ、創造主を憎み、創造主の愛するものを破壊する。
怪物:創造主に愛されていない。創造主を憎み、創造主の愛するものを破壊する。

こういったあたりをもっと掘り下げて作品創りをすればおもしろい映画ができるはずなのだが、「アイ・フランケンシュタイン」は普通のアクション・エンターテイメントを目指しており、それも失敗していたから残念である。

最後に映画のタイトルの「アイ・フランケンシュタイン」だが、アイザック・アシモフの小説「アイ・ロボット」(われはロボット)に関連してつけたように思われる。SF作家アシモフはフランケンシュタインにおける、自分が作った被造物に反逆され滅ぼされるという主題に固執し、それを恐れる恐怖をフランケンシュタイン・コンプレックスと名づけた。また、そのことによってカレル・チャペックの「R.U.R.」のロボットという造語と、フランケンシュタインとを主題として結び付けたのだろう。この映画の中身にはあまり関連はないが、タイトルのみそれにちなんで付けられたように思われるので記しておく。

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