2018年11月28日水曜日

大鴉





エドガー・アラン・ポー作 

加島祥造訳



 あれは嵐の吹き荒れる夜のことだった。それも真夜中だ。悲しさにぐったりした気持でもう世に忘れられた古い怪奇な物語を読んでいた。ふと、うとうと睡りはじめた。と、とつぜんこつ、こつ、こつ、まるで誰かがドアをそっと叩くような音。「誰かが訪ねてきてドアをノックしているんだ」とぼくは呟いた。「ただそれだけだ、なあんでもないのさ」




 いまでもよく覚えているが あれは寒い陰気な十二月の夜だった。暖炉の火はおとろえて焔の影が床にゆらめいていた。その時は朝が来るのをひたすら待ち望んでいたんだーというのは本を読んで悲しさを消そうとしたのに悲しさは消えず、眠れもしなかったからだ。悲しさとはレノーアの死んだこと。輝くばかりの美しい娘天使たちがレノーアと名付けた乙女彼女はもはや永遠にこの世には戻らないのだ。



 そのとき、紫のカーテンが奇妙にかすかに揺れて、ぞっと、恐ろしさが身内に走った。まさか彼女が?………という強烈な恐怖に高まる胸をなんとか押し静めて立ちあがって、呟いたものだ「なあに、誰かがドアを叩いているそれだけのことさ、なあんでもないんだ」気をとり直して、もはやおじけずに言ったんだー「はい、ただいま、どなたかは知りませんがお待ちください。ついうとうとしていたし、あなたはごく そっと来て、ドアをノックする音もあんまり低いんで、つい聞きとれなくて……」そう言いながらドアを大きく引き開けた。外には、闇があるばかりほかにはなあんにもない。



 その黒い闇をのぞきこみ、妙だな、変だなと思い、するとまた恐ろしい気持が起きた。彼女があの世から来たのかと、またも期待できないことを期待しはじめ目をこらしたが、闇は黙りこんだままだ。そっと口をひらいて囁いてみる「レノーアかい?」こちらの声に木魂して声が返ってくる「レノーアかい?」それっきりだ、なあんのこともない!。



 失望と悲しさに沈んだ心で闇に背を向けて部屋に戻った。と、また前よりもはっきり、こつ、こつ、こつと叩く音。「そうか、窓の外に何かがいるんだ、勇気を出して確かめてやろう。なあに、風のいたずらさ。ほかになあんのこともないのさ」



 こう言いながら、窓を大きく押しあけた。と、顔をかすめて、さっとはためく風と音。それとともに舞いこんだのはまるで昔の物語に出るような大鴉だ!!それが威張りくさった王様か王女のようになんの挨拶もせずに入りこみあちらこちらと飛びまわり、しまいにドアの上にある大理石のパラス神像の頭におりたち、とまって、居据わってなあんのこともない、という様子だ。



 それまでは悲しい思いでいたんだがその鳥の態度がいかにも厳しくてその顔つきが奇妙に気取っていたから思わず笑いをさそわれて、こう言ったー「お前、鴉よ、頭に冠毛はないけれど、それでも臆病者にはみえないぞ。古風でいかつい様子はまるで昔の死者の邦の川辺から迷いでた大鴉だ。いったいお前は、あの大王のいる邦ではなんという名で呼ばれているんだい?」「なあんでもなーいNevermore!」と大鴉は叫んだ!



 この不気味な鴉がこんな見事な返事をするとは、まったく驚いた!あいつはただ無意味にでまかせに鳴いたのだろうが、それがぴったりこっちへの返事になっている!こんなことは誰でも出くわすことじゃあない書斎のドアの上に一羽の鳥を見つけたばかりかそいつが自分の名は「なあんでもなーい」と答えるなんて―



 ただしこの大鴉、見事な胸像の上に悠然ととまったまま、ひと声を発しただけだ。それ以上はなにも言わず羽根ひとつ動かさず身じろぎもしない。で、しまいにこっちがつぶやいたんだ「ここに来た友達は、みんな立ち去った。だからあいつも明日はそうするだろうよ。いくつもの希望や願いが飛び去ったように」すると、やつは言った「そんなことはなあい」




 あんまりぴったりした一語が静かな空気にひびいたんで思わずまた呟いた—「きっとお前はその言葉をう呑みにしているんだなというのはお前の飼い主だった男に不運が次々重なって、希望がすっかり悲しみに変わり幸福は「にどとこなあい」と彼が繰り返した。それをお前はひとつ覚えにしたんだ。こう思うと、なんとなし笑いに誘われたし興味も出てきて、椅子をぐるっと鴉とドアのほうに回してまっすぐに向き合いクッションに身を沈めたすると空想が輪のように重なって起こったーいったいこのへんてこな鴉陰気で骨ばって亡霊じみて不気味で不思議な鴉が泣きわめいたひと言はどういう意味なのかなあの、またとなあい、とは?



 こんな考えに耽っていて、鴉になにも言わなかったし、鴉のほうもただ鋭い両眼でこっちの胸を焼きこがすかのように見つめていた。やがて、ぼくはいつしかランプの光の柔らかにおちるクッションに頭をうずめながら思った。ああ、この紫のビロードのクッションにもはや彼女が頭をのせることはまたとないのだ。



 ふと気がつくと、空気が妙に重ったるくなって、まるで天使が白い雲から降り注ぐ、香炉の煙であたりが暗くなったかのようだ。思わず鴉に向かって言ったこのろくでなしのお使いめ!お前は神に命じられておれに悲しさを忘れる妙薬を持ってきた。そうじゃあないのか?レノーアへの思い出を忘れるために飲めと神のくれた薬を持ってきたのじゃないのか?大鴉は言った「それはなあいNevermore!



 「そうか、お前は予言者か!不幸を告げるやつか!鳥にしろ魔物にしろ、予言者なら言え、お前は魔王に送り込まれたのか、それともただ荒れ狂う嵐に吹き寄せられ、しまいにこの呪わしい土地の、この恐れおののく家にやって来たのか?お前の来たところにはそんな秘薬があると告げにきたのか?ええ、言ってくれ、頼むから…」鴉は言った「それはしなあい」



 「予言者か、不幸を告げるやつか。鳥にしろ魔物にしろ予言する者よ、天国に誓ってわれら両方の崇める神に誓って悲しさに満ちたおれに言え。聞かせてくれ、わが魂は彼女を抱けるのか、わが魂は遠いエデンで天使たちがレノーアと呼ぶ清き乙女を抱けるのか、あのまれな輝きにみちたひとを抱けるのか」「にどとなあいNevermore!



 「ええい、鴉め、悪魔め、こっちもそのにどとなあいの一語を使ってお前との別れにするぞ」と立ち上がって叫んだ。「戻れ!帰るんだ。あの嵐のなかへあの黒い地獄の川辺へ!黒いその羽根一本も残すな!ああ、この孤独な身をこれ以上

かき乱すな。そのドアの胸像から飛び去れ。この胸に突きささったお前のくちばしを抜いてこの部屋からその姿を消してくれ」「それはしなあいNevermore!

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