2010年12月22日水曜日

私の哲学

私は自分がどのように生きたいのかを知りたい。
(「私は自分がどのように生きたいのかを知る」とはどういうことなのだろうか?知りえるのだろうか?)
私は本当に「自分がどのように生きたいのかを知りたい」のだろうか?ということを知りたい。

私とは何か?
「私」という言葉を発すると同時にその「私」はすでに過去のものとなってしまう。その中でも今現在あるこの自己意識こそが私なのではなかろうか?という永井均的<私>の考察
私が無ければ時間はない。時間が無ければ私はない。時間に現在などなく過去未来だけがあれば、私など無い

本当とは何か?
すべては単なる主観的なお話に過ぎないのであって、本当は言語(パースペクティブ)の内で生成していくのであるのではないか?
生きるとは何か?存在とは何か?

私は自分がどのように生きたいのかを知りたい、という問いは単なる逃避なのだろうか?
堕落なのだろうか?知りたい。
ただ単にお腹が減っているのだろうか?ただ単に眠いのだろうか?

2010年12月19日日曜日

偽善

新しい出会いはすばらしい
あいつに会って、
自分が贋物だって気がついた。偽物の哲学者・・・
自分は本当は価値相対主義に位置することによって、単に自分の善なる生き方に対して怠惰だったのだ。
ニーチェなんか読んで、あらゆる価値を破壊して、その上で虚無主義に自分の生き方をごまかしてきた。
自分の欲求が常に自分の道徳よりも上に位置している。そして、自分でそれに沿った考え方を採用していたのである。
ラカンを読んで、自分が本当は何を欲望しているのか考えた。自分はいつまでも「自分探し」を続けていたい。それは自分を本当は知りたくない欲望なのである。
先生や他の哲学の友達たちも私に偽物を感じとっていた人は避け始める。

ラカンが言うように、ひとところに固執して、とどまっていないでどんどん考えを先へ進めよう!
もういちど、哲学の基本に戻ろう。
カントをプラトンを読もう!!
マイケルサンデルを見よう!!
自分で考えよう!!
絶望に浸っていないで!やることはあるのだ!!

2010年12月16日木曜日

俺は何やってるんだろう・・・

2010年12月7日火曜日

寝過ごしや堕落したりておひるどき
バラ枯れてなしたることなき人生を想う
俳句読み家にこもりて季語はなし
ピアノ弾き下手の横好き近所の目
休学して学休まず
堕落しても完全には落ちず
固執しても届かず
遅刻してもただでは起きず
やりたいことをやるべきことにしてしまえば苦痛
罪悪感振り払えども抑圧あるのみ

2010年12月4日土曜日

不安定な自分

ただの自己満足か、それとも道化者か。

言いかえればオナニストか、ナルシシストか。

ネクラかネアカか。

手品師と画家

いつの間にか自分の満足いくものより他人の満足いくものを書いていないか

自分が大衆的なものを好んでいることに気づいていたか?

自分が大衆的なものが好きだという事実に耐えられるか?

他人の目を気にして他人と違うようにふるまっているのか?

他人の目を気にしないで行動すると、いつの間にか大衆の一人になっているのではないか?

2010年12月3日金曜日

吐き気

吐き気吐き気吐き気ああ吐き気がするサルトルとは違う吐き気
こんなにも胸糞が悪いのはなぜだ!
俺は何に対して吐き気を催しているのか?
俺は責任に対して吐き気を催しているのだ。
責任とはやらなければならないことをやることだ。
自立・自律するためには責任がまとわりつく。
その吐き気からは他人に頼りたい他人に頼りたいという欲望が出てくる
責任自律めんどうなこと、気持ちが悪い!!
思い出した。幼いころは宿題に対してそんな気持ちをもっていたようにも思える。
他人に対しての配慮や行動が責任を伴って僕を拘束する。
ああ、胸糞が悪い
ああ、胸糞が悪い
僕は前から責任と言う言葉が嫌いだった。
責任なんて虚構だと思っていた。
違った。
責任なんて虚構だと思いたかったのだ。
気分が悪くなってくる。
だから、私はいつまでたっても現に親から自立していないのだ。
心の底では自立したいと思っていないのだ。いつまでも親に甘えていたいのだ。
痛いのだ。痛いのだ。甘えて痛いのだ。
そのくせ、親を親と思わずただの人間他人のうちの一人にしてしまいたがっていた。
自分一人の力でやろうとすることがこれほど大変とは思わなかった。
林田先生の弁論大会への協力がなければ、自分はあれだけできたのか?
憂鬱な日々が続く。
しかし、乗り越えなければ、これこそが成長なのだ。
みづからに責任を負って、やりたいことを成し遂げてやる。そのためにはどんなやらなければならないことからも逃げない心にしなければ!
くそっ!くそっ!
自分は弱いことを知っているつもりだったが自分がこんなにも弱いとは・・・!
何かに押しつぶされるような重圧、ストレス。やらなければならないこと
それが私を押し潰そうとするのだ。
涙を流したい気分だ。解決しても次のやるべきことが来るだけだが、すべてを後回しにすることは何も解決しない。ただ、ほって置けばそれで終わってしまうのだ。
助けを求めたくないと思いたいのだが、私は明らかに助けを求めている。

V.E.フランクルの「<生きる意味>を求めて」を手に取る。

神は、あなたにとって一番親しい、独り言の相手である。あなたが自分自身に向ってこれ以上ない誠実さで語りかけ、本当の孤独の中で語りかける時にはいつも、実はその相手になっている人、その人のことを神と呼ぶのだ。
 この定義なら、無神論的な世界観と有神論的な世界観という二分法は意味がなくなる。無神論か有神論かという違いは後になって出てくるだけのことである。違いと言っても、無神論の人なら、独り言をまさに自分自身との対話だというだろうし、また有神論の人なら、その独り言を、誰かほかの人との本当の対話だと解釈するだけの違いである。何よりも大切なのは、これ以上ない誠実さと正直さであると私は思う。98頁

ああ・・・・・。

2010年12月1日水曜日

私の孤独について

孤独感とは何であろうか。
私は私の孤独感をコミュニケーションを求める欲望との対比で明らかにしたい。
単に一人でいることが孤独感の条件ではない。孤独感とは人間関係或いは他者との関係の断絶なのである。たとえば、一人でTVを見ているとき、私は孤独感をもたない。ところが、そのTVでの笑えるシーンで笑い、思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有すべきだれもいないことに気づき、孤独を感じるのである。
あるいは一人山に登り、夜空いっぱいの星星を眺めているとき、わたしは孤独感を持たない。この世界いっぱいに自分の存在が広がる思いである。しかし、ふと、この気持ちを誰かと共有したいと考えたとき、自分が一人でいることに気づくのである。

孤独とはなんであろうか。
孤独感とは私は今実感している世界とその外側に、今実感しない世界を想定したときの二つの世界の境界である。
例えば、一人山に登り、小鳥のさえずり、すがすがしい空気を感じているとき、私は世界と一体となったような気分に襲われ、満足感に満たされる。ところが、この光景や気分を誰かと共有したい、あるいは誰かに伝えたいと考えたとき、私の実感している世界のようなものが突如として小さくなり、自分の実感できない外にある大きな世界を想定あるいは、別の場所にある世界を想定してしまうのだ。そのとき孤独を感じる。

孤独とは何であろうか。
孤独感とは、自分が一人でいることに気づくことである。
TVで笑えるところで笑い、無意識に「これ面白いね」と言って、隣にだれもいないと言うことに気づくとき、そんなときには自分が一人でTVを見ているということを別の視点から眺めている感じがする。

孤独とは何であろうか
孤独感とは、例え人々と一緒に居ても、気持ちがいっしょにいないことである。周りの空気に合わせていても本当に心で思っていることとはまったく違う。自分が他人に向って言っていること、自分のいる場所や何もかもに違和感を感じる、この世界が非現実的な、夢のようなものに見える、異質なものに見える。

孤独とは何であろうか
孤独感とは、他のあらゆるものを対象化させて、突き放して見るということである。
「私とは誰かと問う私とは誰かと問う私とは誰か・・・」
上記のような無限の問いは「私」なるものを無限に対象化する。このような堂々めぐりに陥るとき、本質的には自分はたった一人しかいないと感じる。
誠実に哲学するものは孤独からは逃れ得ないのである。