2024年10月29日火曜日

ハマーフィルムの『吸血鬼ドラキュラ(1958)』のあらすじ(ネタバレあり)

 1958年のイギリスのハマーフィルムの映画『吸血鬼ドラキュラ』

この映画ではドラキュラをクリストファー・リー、ヘルシングをピーター・カッシングが演じ、ヘルシング教授の強い印象を強く残した。カッシングはどう見てもイギリス紳士。他の映画ではホームズやフランケンシュタイン博士も演じている。


ルーシー・ホルムウッドと婚約しているジョナサン・ハーカーはルーマニアの都市クルジュ=ナポカ(映画ではドイツ語読みKlausenburgクローゼンバーグ)にあるドラキュラ伯爵の屋敷の図書室に司書として仕えにくる話だった。

ドラキュラ伯爵はルーシーの写真に目を止め、ハーカーに「果報者だな」と言う。

艶かしい女吸血鬼が「私はここに囚われているの。助けて」と言いながらハーカーを襲う。後にドラキュラの棺を発見し心臓に杭を突き立てようとするが…。

そして、消息の絶えたハーカーを追って、ヘルシング教授がやってくる。近くの酒場でハーカーの日記が預かられていた。

ヘルシングはドラキュラ城へ行き、吸血鬼化したハーカーを発見する。


ヘルシングはドイツのカールシュタットに戻る。

ルーシーはアーサーの妹、そして、アーサーはミーナと結婚しているという設定になっている。

ルーシーは10日ほど前から貧血症状で寝ているが、首筋に傷が。すでに毒牙にかかっていたのだ。

ヘルシングは首の傷を発見し、ルーシーはハーカーの死を直感する。

ヘルシングは窓を閉じ、ニンニクの花を添えるよう指示するが、お手伝いゲルダが退けてしまい、ルーシーは死ぬ。


ところが、ゲルダの娘タニアがルーシーに会ったという。

アーサーは墓にルーシーが眠っていないことを発見する。

タニアは毎晩ルーシーに呼び出され、アーサーが跡をつけ、ルーシーに襲われる。しかし、ヘルシングが十字架で撃退。

アーサーを説得してヘルシングは日中ルーシーを杭で打ち、安らかな眠りにつかせる。


アーサーとヘルシングは棺の移動記録からドラキュラの住む場所を割り出そうと調査に出るが、その間に、留守番していたミーナは、ある場所に来てくれというアーサーからの伝言を預かる。行くとそこには棺が。

ミーナの異変に気がつき、夜中見張ろうとするも失敗し、ミーナも毒牙にかかり、ヘルシングによって、アーサーから輸血する。

実は、ヘルシングはドラキュラがアーサーの家のワインセラーに棺を置いていたことに気がつくが、ミーナが誘拐される。


アーサーとヘルシングはミーナを誘拐したドラキュラを追って、ドラキュラ城へ。

アーサーはミーナを助け、ヘルシングはドラキュラと一騎打ち。十字架と日光を駆使して倒し、終幕。

2024年10月25日金曜日

汎人形論

 ●汎人形論

変なことを言うが、たとえば、人間の創り出す全てのものが人形だと考えてみたらどうだろうか?

目の前にあるこのスマートフォンも、ペンも、コップも、着ている服も、ゆで卵も、書籍も、今いるこの喫茶店も、そして、この手帳に書きつけた文字も。

あらゆるものに人形を見出してみる。

ある精神病棟の患者に人形に取り憑かれた狂人がいた。そう、彼にはなんでもかんでも人形に見えてしまうのだ。出される食事も人形に見えてしまって、気味が悪くて食べられない、といった塩梅である。


闇と沈黙…どこからか娘の歌声が聞こえる


●人形論考導入

人形について話してみたいと思う。

ある知り合いの少女は、人形をなおみと名付け、とても大切にしている。長いことかわいがられたためか、なおみはもうひどく汚れ、あちこちが擦れている。しかし、少女にとってはきれいでピカピカの美しい友達、なおみ。少女はいつもなおみと一緒にいたがり、どこに行くにも連れて行く。一度、旅先で置き忘れてしまったときなど、大泣きして大人を困らせる。そして、同じメーカーの同じ型の人形を買おうとしても「それは違う。私の友達、なおみじゃなきゃ絶対ダメ!」と大泣きして駄々をこねる。(ヤンシュヴァンクマイエルのアリスのイメージ)

子供にとってのそれはぬいぐるみや怪獣やヒーローのフィギュアなどの場合もあるようだが、幼少期にそんな存在と過ごした人はいるだろうか?

ところが、ある日、自分が愛していた大切なもの、なおみと名付けていたそれが何でもない薄汚れたただの物体、空虚で意味のないものだと知る。

まあ、そう明確に意識したわけではないかもしれない。が、なぜか突然、興味がなくなる。

一歩、彼女は大人になったのだ。

しかし、それだけではない。珍しいことだが、その子は人形に不気味さを感じ、ひどく恐れるようになった。理由を聞いてもよくわからない。なんとなく怖いという。あれほど可愛がっていた人形なのに。一体なぜなのだろうか。


●生と非生の狭間にある恐怖

では、そもそも人形とはどういうものだろうか?

人形とはまず人の形をした物体である。

「生きて話して何か考えや意志や感情がある人間というものに、形だけが似ている。

しかし、それは、生きていないし、話さないし、考えも意志も感情もなく、中身のない空虚で意味のない、ただの物体なのである。

そして、生々しければ生々しいほど、不気味に見える。

そう、もちろん、人形は最初から魂のない、生命のないものだと分かっている......はずである。なのにそうとは言い切れない。見れば見るほど、魂があり、生命がある可能性を強く感じてしまう。

だが、そのことがさらに一層、人形の空虚さを強める。

なぜ人形は怖いのか?

人形は生きていない。

無表情な人形はいかにも生きてないふりをしている。

だからこそ、その人形の顔の向こうに、我々は生きているかもしれないという可能性を見る。

生きていることと、生きていないこととの矛盾したところの何か神秘的な印象に、怖さを見るのだ。

生者、死者、そのどちらでもない不死者。

それらは生きてないふりをしている。

「ふり」をしている。

つまり、生きているのだ。

いや、人形は、生きているわけではない、だが、死んでいるわけでもない。

生にあらず、死にもあらず。

そこに何か怖さを感じる。

怖いものの代表には死者がある。

だが、実は我々は死者が怖いわけではない。そうではなくて、我々の生きている世界に生きていない者が侵食することが怖いのだ。

死者は我々の生きている世界に最も近そうな生きていない者である。

死者の弔い、葬儀はなぜ行われるのか?

我々の生きている世界に、生きていない者が侵食してこないようにするためである。

死者の世界と生者の世界の境目、そこに恐怖が存している。

幽霊と、ゾンビとが死者に関する怖いものの代表格としてあるのだろう。

ゾンビは死体で魂がない。しかし、死に切れていないから歩く。魂がなくて身体だけ。

幽霊には身体がない。しかし、死に切れていないから、魂だけが残っている。身体がなくて魂だけ。

それらは死んでいるのに生きていて、生きているのに死んでいる。生死の世界の境目を侵すのだ。

リビングデッドドールズを知っているだろうか?

リビングとは生きている。デッドとは死体。ドールズとは人形たち。リビングデッドドールズ。

矛盾に困惑するかもしれないが、つまり、それは生きており、死んでおり、しかもただの物体でもあるのだ。

人形には何かそういうところがある気が私にはする。


•恐ろしい愛

人形は、生きているこの我々の世界の向こう側からこう呼びかけているのかもしれない。

「空虚で無意味なこの私には、知恵が、心が、意志が、魂がない」

この空虚さを満たして、人間にして欲しい」と

この人形はドロシーの仲間かピノッキオか。

そして、人形への愛が人形を生き生きとさせる。なおみのように。

少女はその意味のない空虚な物体を生きた人間、友だち、つまり、なおみとして扱い、なおみとして存在せしめ、なおみとして愛する。それが少女にとっての人形の意味である。

この世界にあるあらゆるものもまた意味なんてなく、 すべて空虚である。そして、我々はそうした空虚な物体に何か自分にとっての意味を見出してしまう。

それが愛である。否、我々はそうした物体を愛してはいない。むしろ、そうした物体が我々を愛してくれるよう求めているのだ。

そして、それならば、我々もまた"人形なのかもしれない。

正確には我々の肉体も、と言うべきか。

私のこの身体が私に向かって意志、心、魂、つまりは何か精神的なもので満たすよう私に求めてくる、というように考えてみる。

すべては人形のようなものなのだ。

少女は人形をなおみとして扱うが、なおみが話す言葉を自分で代弁する。

そのとき、人形なおみは少女自身でもあるのだ。

少女自身が人形に投影されている。

そうして、少女自身はそこに見出した人形の自我によって自分自身の自我をも獲得する。

少女のこころは人形の中になおみの心として存在しており、それがわかるのだ。

だから、自分でなおみと喧嘩することだってできる。

このことは、我々のこころはどこにあるのか?と考えてみるとわかるかもしれない。

科学医学によって心は頭にあるだろうと考えている人は多いようである。しかし、心が痛むと言って頭を指す人は少ない。我々は胸のあたりに心があるようにふるまい、実際にそう感じている。

心は胸になどないのに。それなら、人形にだってありそうなものだ。こころはなんにでも投影することができるのだ。

しかし、あるとき無意識にそれに気がついて、人形や他人の心はわからないものだと気がつく。

それが大人の始まりであり、彼女が人形を理解できないものとして怖がるようになる最初だったのかもしれない。


●理解できないもの、他者の顔

人形の顔には、もちろん、いろんな顔があるが、中でも、何を考えているのかわからない、無表情な顔がいい。虚空を見つめる瞳。そして、無言。

顔とは無限なものである。そうフランスの哲学者レヴィナスは考えた。

人間は、あらゆるものを飲み込み理解し尽くそうとし、自己において完結、自己完結させてきた。これを全体性という。

例えば、自然を実験や観察や分析によって理解できるものにして、自分達が加工し支配しやすい都合の良いものにした。

例えば、我々に理解できないような人間を「狂人」というレッテルを貼って、精神病院に入れてしまう。「この人間は壊れているので治療して治すべきものです」とわからないものにも病名をつけて理解した気になってしまうような。

しかし、あなたは相手を理解した気になっても、未だ理解できていないところが必ずあり、あなたの理解から必ずはみ出てしまう。自然も想定外の災害が起き、狂人の心は心理学によって完全に解明されたとは言い難い。そして、出会う他人は常に想定外の可能性を備えている。

我々に理解し難い存在を他者と言う。我々とは常識や前提や見ている世界がどこかしら違う者、他者。

レヴィナスはどうやっても相手(他人)の存在は自分には到達できないものであるとして、「無限」と言い、「顔」という言葉で象徴した。

そして、人形という《他人》は、《他人》というものの本来の在り方を思い出させてくれる。人形は、我々にはとうてい到達できないような無限の顔を備えているのである。

理解できなさを肌で感じる時、あなたは恐怖を感じるかもしれない。

そして、人形は無言なのだ。

無言であるが故に、我々はその無表情な顔からいろんなものを読み取ってしまう。いや、自分自身の不安や恐怖すらも映し込んでしまう。


そんな感じがする。


そして、そんな理解できない怖さを乗り越えると、不思議と再びなおみを慈しめるようになり、我が子に託すこともできるのだ。


絵本「なおみ」を読む


宮本美代子 球体関節人形 造形展 考察↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2024/04/blog-post.html

2024年10月1日火曜日

カント哲学 否定と無限!

否定判断と無限判断

ジジェクはカントのこの区分けをユーモアを伴って説明していました。

単に否定命題でHe is not dead.「彼は死んではいない」と言うときと、he is an undead.「彼はアンデッドだ」というのとでは意味が違う。


カントは、人間が考える時に使っている思考(悟性)の形式をカテゴリーに分けて整理しました。


カテゴリーには4つあり、そのうちの「質」がありますが、今回は質を取り上げます。


悟性のカテゴリーの質はさらに3つに分かれます。

(カントは判断の形式を悟性の形式を導くための手引きとしていますので、判断を3つ取り上げます。)


ひとつ目は肯定判断。例えば、「これは長い」とか、「これはりんごである」とか。


ふたつ目は否定判断。例えば、「これは長くない」とか、「これはりんごではない」とか。


最後に無限判断。例えば、「これは長くないものである」とか、「これは非りんごである」とか。


この最後のものは、内実は否定判断なんだけれども、それを無理に肯定判断にしたもので、一見したところ否定判断と違いを感じないように見える。

私も最初読んだ時には、「何が違うのか?」と疑問に思ったものです。


しかし、カントは否定判断は単にひとつの「長い」という性質を否定したのに対し、無限判断とは、長くないすべてのものが可能性として含まれてしまっていることに留意する。

つまり、長くないものには、短いもの以外にも、空間的でないものやら、丸い四角やらも含まれてしまっているのです。そうしてカントはこれを「無限判断」と呼ぶのです。


(ただ、この無限判断から導かれたカテゴリーは制限命題とも名づけられています。それは「長くない」という一点において制限されているのみとも言えるかららしいです。)


そして、私の読みではこれがカント哲学のひとつの根幹でもあるのかなと。


例えば、世界の限界について考えるときでも、

(カントは世界は有限であるということの証明と世界は有限ではないことの証明を両方することによって、それら証明そのものが有効でないことを示し、それをアンチノミー〈二律背反〉というのですが)


「世界は時間的に有限である。」

「世界は時間的に有限ではない。」

このどちらか以外の方法として「世界は非=有限である」を考慮に入れていた節があります。


そう考えると、実はあの「世界は有限である」の反対は「世界は無限である」というのは言葉としては翻訳は正しくとも、正確には無限を積極的に提示しているというより、有限の否定についての話なのかもしれないと。すると、この命題はカントの真意にそうなら、「世界は有限ではない」と訳すべきであって、積極的に無限を証明したわけではないと言えるかもしれません。


そして、アンチノミーのあとで、それらの問題は不定であるとしてある種の結論めいたものを出しますが、そのときでもこの第3の判断のことを思わずにはいられないのです。