2011年3月28日月曜日

父像

父親たるものは息子の尊敬の対象!
父親たるものは息子の畏敬の対象たらなければならない!
完全なる英雄たらなければならない!
息子を圧倒していなければならない!
そして息子の敵たらなければならない!
したがって父親は敵として尊敬されなければならない!
 
しかし、うちにいるのは府抜けた社会的弱者。あまりにも弱すぎて憐みをかけるしかないのだ!
今まではそれでよかった。
私は父親を父親として認識していなかったからだ!私は父親を人間の一人として加算していただけだ。
格別な何らかの認識を持っていなかった。
私の基本的な考え方は「相手の価値観の前提と同じ土壌に合わせること」「相互性の原理のみに立脚すること」である。さもなくばそもそも話が成り立たないからである。
父が父権を振りかざすようになってから、つまり、「息子としてどうあるべき」(正確には息子にどうあってほしい)などという主張を聞いてから、私は父は父としてどうあるべきか(つまり、どうあってほしいか)考えるようになった。
その結果、生物学的父を父権を持つものとしての父としては認められなくなった。
それ以来、父が父権をかざすときに限り、私も息子として父のあるべき姿を要求し続ける。その要求が受け入れられなければ、父の父権も認めないつもりだ。
 
しかしまた、今はこう考える。そもそも父たるものに対して何らかの要求をすること自体が、父を父たらしめなくしている。どうあがいたところで父は理想的な父たりえないのだし、私という息子も理想的息子たりえないのだ。
 

2011年3月11日金曜日

社会のバランス維持の倫理と<わたし>の倫理−仮想対話−

A:
> 普通の意味で「べきだ」「べきでない」と言われるのは社会のバランス維持の倫理だと私は捉えている。
> 溺れている人を助けることがバランスの崩れを食い止めることになり、人を殺さないことがバランスを維持するように。
> だから一回の悪は無数の善によっても消されない。
>
> 私の考えてる倫理はバランス維持の倫理ではない。むしろイエスが十字架で示したような倫理だ。
> それは別に命を懸けるようなことじゃなくても子供に飴玉をあげるようなことでもそんな倫理になりうると思っている。
B:
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
というのはバランスの倫理とは違うものだと思う。
社会バランスの倫理は社会によってそれぞれ違ったものでありうる。(そもそもの社会を成り立たせている個人の倫理が違うのだから)従って、「一回の悪は無数の善によっても消されない。」ということとは関係無いと思うのだが。
個人がたまたま、心のうちに自分のしてしまった罪責感に囚われているときのみ
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
ということがあり得るんじゃないかな。これは個人の心のバランスである。

>いや、心のバランスつまり罪責感うんぬんなどではない。悪を行った過去は消えないということだ。

では、過去に悪があったということが一つの事実であったとして、それは確かに消えないであろう。しかし、それは君の示した倫理においても、例えば、君の示した倫理に反する行為つまりその倫理にとっての悪が一度行われたとしたらそれはもう二度と消えないのではないだろうか。
消えるとしたら、過去の記憶が消えてしまったか、君自身が死んでしまったか、あるいはやはり心の罪責感がなくなったとしかいいえないのではなかろうか。
しかし、社会のバランスの倫理を考えたとき、何か悪いことをして、それを償わなくてはならないということはあっても、何か良いことをしたからと言っ
てそれと同等の悪いことをしてもいいということにはならないのはなぜだろう。

>何か良いことと言うのは結局は悪いことの打ち消しでしかない。
>たとえば、人を助けるということを考えたとき、助けられる人は何かに困っていなければならない。そして、助けることによってその困っている悪い状態を打ち消すのだ。

本当に積極的な善はあり得ないのだろうか。人を助けることによって、賞賛されるとか・・。

>ないことはない。それは、価値評価と芸術活動だ。
>それこそ私の考えている倫理に近くなるのだが・・。

なぜそういいいきれるのだ。言い切れるほどの理由があるのか。

>確かにそう簡単に単語を二つ並べて語れることじゃない。今のは嘘だ。むしろ語れることじゃないかもしれない。このことは・・。

では一番最初の例に返ろう。キリストが十字架にかかることと子供に飴玉を差し出すという行為はいかにして倫理と呼びうるのか?

>それらは私にとっては他人の倫理なので、考えることはできない。

しかし、それではなぜその例を挙げられたのだ?例が挙げられるのだからそのことに関して何かあげられるだろう。

>さらに言うならば、私の倫理というのもこれまた未だ分からずにいる。
>バランスの倫理については考えやすいのだが。

少し考えてみよう。例えば、私は車や人々がいないところでは赤信号を渡ってもいいと考えている。なぜなら、信号というのは人々が交通に際して、事故を起こさないためにある便宜的なものであるので、車や人々がいないところで守るなどはナンセンスだから。
しかし、同時に私は車や人々がいないところでも赤信号を渡るべきでないと思っている、いや、感じているらしい。だれもいない交差点で信号無視をしたのに私のうちの何かが「それをしてはいけなかった」を語りかけるのだ。

それはただ理由なき不可解な行為に理由を無理やりつけているだけではないのか?

>いや、そうではない。そのように評価する君は初めからそれを「ただの行為」と前提して話している。そのこと自体は正しいのか。ただの行為。ただの物理的反応。ただの人間。ただの友達。その言葉によってどれだけの何かが失われているか。そこに何らかの何かがあるのだ。歴史的に唯物論や科学の発達や神の死によって「存在」という言葉が失ってきた何か。それを君も失っているのだ。

そんなことは言っても、その行為を見ても単にその行為として成立しているのではないのか?君は行為をみて、その行為以上の何かが見えるのか?

>ただし、「そこに何らかの何かがあるのだ」とは言っても、君が何らかの時空間に物理的に存在しうる何かを考えているとしたらそれは間違っている。

それは分かっている。

>いや、今聞いたから「そういえばそうだった」と今気付いたのだ。

しかしながら、ある行為が善か悪かを決定するのにある基準が存在しなければそもそも決定できないのではないか。
Sent: Friday, October 22, 2010 5:39 PM〜Saturday, February 24, 2011

2011年3月4日金曜日

感性的芸術、認識論的芸術

前回、クラシック的美しさとカオス的美しさについて話したが、クラシック的美しさというのをコスモス的美しさという名前に改めたい。カオスの対義語はコスモスだからである。
では話を続ける。
前回はコスモス的美しさとカオス的美しさについて話し、世間で受けているベストセラーや売れている作品については取り上げなかった。
コスモス的美しさは世間受けするような何度も使いまわされるようなエンターテイメントとは異なったものを指す。また芸術でも、小説や演劇などは内容のほうに重点が置かれていると考えるので言及しない(ただし、音楽や絵画でも何かを主張するものも多いのであるが)。→ということは、逆に小説や演劇は何かあるカオス的美しさを未だあまり発掘されていないということであろう。ところで思ったのであるが内容(つまりストーリー性)はとても強い。ある芸術が何かを主張しているあるいは何らかのストーリーをもっているだけで、それは美しさのうんぬんを超えて大きな力をもつと私には感じられる。逆に音楽としては(あるいは絵画としては)いいのだが内容がないと言われた芸術はそれだけで価値が芸術としては大したことがないが内容のある作品と比べて劣っていると評価してしまいやすいのだ。
 
>いや、そのように感じるのは音楽や絵画の魅力が足りないからである。本当に素晴らしい音楽や絵画は内容(ストーリー性や主張)を必要としないものだ!君は現に先ほど、音楽、絵画を小説、演劇と分けて考えていたではないか。
 
音や色そのものを重視した芸術を感性的芸術、内容、メッセージ、主張、ストーリーを重視した芸術を悟性的芸術と名づけてみるか。
 
>君はすぐにそう分類したがる。分類など重要なことではないのだ。
 
しかしながら、分類によって、新しい観点が開ける可能性が出てくるのも事実であろう。
(などと自分一人でもう一人の自分と対話していて思いついたのだが、ヴィトゲンシュタインの「哲学探究」の対話に対話する人間とヴィトゲンシュタイン自身の区別が明示されていないのも、彼が一人で考えているからなのであろうと思った。)
話を戻すと、感性的芸術にしろ悟性的芸術にしろ、その両方をもつものにしろどちらも極めれば大きな力となるのだろう。
 
>しかし、私にはむしろ悟性的芸術には限界があると感じる。
 
いや、私には感性的芸術にこそ限界があると感じる。人間の認識できる色や音は限られているからだ。しかしながら、主張、メッセージ性やストーリー性には無限の可能性がある。思考は実在している物よりも無限なので「色や音では決して表現できないものを表現した。」という表現ができるからだ。
 
>しかし、主張やストーリー性は抽象化されて簡素になりうるが、色や音は決して抽象化されえない。色や音や文字は相互に変換しえない。変換したらそれは全く別のものになってしまうであろう。
 
しかしながらも、言葉の上に色や音の意味を映して(例えば、「私の心にベートーベンの『運命』が鳴り響き、私はしばらく我を忘れていた」と)表現することによって、個人の心にそれぞれのベートーベンの運命を鳴り響かせることができるのである。それを考えると、言葉は無限の可能性を秘めているのだ。
 
>それは文字だけでなく絵画や音楽にも同じことができるぞ。
 
だが、できたとしたら、それは音楽そのものつまり音そのものの美しさではなく、あるストーリー的な理解の美しさであろう。
 
>話はそれてしまうが、君は名称の付け方を間違っている。君が言っている悟性的芸術は悟性だけではなく何らかの感性も含みうるような芸術だ。
 
それでは認識に重点を置いた認識論的芸術とでもいうか。