2024年5月17日金曜日

破滅へいそぐドン・ファン ~フロイトの人間像とドン・ファン像、そして過剰なもの、表現~

「死に直面したときこそ、生の歓喜がぞくぞくっとわきあがるのだ。血を流しながらにっこり笑おう。」岡本太郎


●快についての疑問とドン・ファン

結局、人間は本能だ。などとよく言われる。

愛だの恋だのといっていても、結局はそんなものは性欲にすぎないとか、

男は結局のところみんなドンファンと同じようなものだ、とか。

……ドンファン。

あなたにとって《ドンファン》という男はどんなイメージだろうか?

ドンファンとは、次から次へと女性をヤリ捨てし、まさに性欲で生きている男というイメージがあるかもしれない。

しかし、そのイメージは適切だろうか。

そして、「人間とは結局、本能によって生きている」というイメージは適切なのだろうか?


 

2024年5月12日日曜日

人生は短いの??長いの?


 人生は長いのだろうか?それとも短いのだろうか?


詩人ハイネは得意の皮肉でこう言う


人間よ、悪魔を嘲るなよ

短いものは人生だ

永劫の罰というのは

夢愚かな迷信じゃないぜ

人間よ、借金を払っておけよ

長いものは人生だ

すでに度々の経験だが

今後も借金は免れないぜ

「帰郷」


しかし、人生には長いも短いもない。

何かと比較して長い人生や短い人生があるだけで。

巻尺は長いのか?短いのか?と聞かれて、何と比べて7日、その巻尺は何メートルの巻尺なのかすら知らずに答えられるのだろうか?

人生は長い、人生は短い

と言うときは何との比較なのだろうか。

例えば、80年生きた男がいる。

彼が末期に「人生は短かった」とひとりごつ時、それは何を意味しているのだろうか?

それは客観的な時間80年と人生として生きたこの80年とを比べて言っているのだろう。

普段、熱中していた2時間をいつもの2時間と比べて短いと感じるのと同じである。

しかし、客観的時間もまた主観で測るしかない。それも、熱中していない時間を気にしている時の時間を基準としている。

つまり、人生80年が短いとは、普段時間を気にしている時の時間感覚を延長したものとして80年の空想と人生として生きたこの80年とを比べて「短い」と言っているのだとわかる。

2024年5月4日土曜日

人は仮面(ペルソナ)を被らざるを得ない。




 人は仮面を被らざるを得ない。

SNSであれ、リアルであれ

なんであれ、最初は自由に感じる。

私がこうありたいからこうある。

しかし、多くの人と付き合っていくうちに、いつの間にか、ペルソナ(仮面)を被らされている。

女性の前では、男というペルソナ

海外の人たちの前で、日本人というペルソナ

新人の前で、先輩というペルソナ

上司の前で、部下というペルソナ

自分で作り上げたキャラもまた、ペルソナだし、

自然だと思っていたあり方も、誰かが「君は〇〇だね」と言い当てられると、ペルソナ化する感じがある。

過去の自分に縛られることもある。

一度、俳優として出てしまうと、人々からそう思われてペルソナ化し、絵を描いても、「絵も描く俳優」と思われる。


そして、また、我々は相手のことをすぐにペルソナで見てしまう。

「あの人はこうだから」というように固定化する。


だが、ペルソナの向こう側に、捉えきれない無限の顔を見るのがレヴィナスという哲学者が示唆したこと。