先日、フランケンシュタイン読書会を行った。
みなさんはフランケンシュタインを読んだことがあるだろうか?
映画やオマージュ作品があふれているために、イメージはあっても、原作を読んだ人は少ないかもしれない。
読書会では次のような読み解きがあった。
怪物は怪物と呼ぶにふさわしくないほど人間的で感受性豊かで愛もあり壮大な自然を甘受して心打たれている。
一方で、怪物の創造者、いわば怪物の生みの親、ビクター・フランケンシュタインは精神的に成熟しておらず、自分勝手で自分で生み出した被造物を、自分の子供だと思わないで、醜いものとして退け逃避した。
しかも、対面時に怪物が冷静に理性的に語り掛けているのに対し、ビクターは端から拒絶し全く耳に入れようとしないのである。
むしろ、逆説的に怪物のほうが人間で、ビクターのほうがその見た目とは裏腹に怪物なのである。。
こうした意見を持って、参加者のみなさんは怪物に共感していた。だが、私は違った。
私はビクター・フランケンシュタインに、そしてまた、志を同じくするウォルトン隊長(怪物を追跡するビクターと遭遇し、ビクターに話を聞いた北極探検家)に共感している。
例えばこういう部分である。
「私は大喜びで、これらの著者の放恣な空想を読み、かつ研究したが、そういうものは、私以外の人のほとんど知らない宝のような気がした。 私は自分を、自然の秘密を洞察しようという激しい憧憬にいつも浸っている者だと称した。近代の哲学者たちの烈しい労作やすばらしい発見にもかかわらず、私はいつも、自分で研究してみたあげく、不満と不足を感じるようになった。」36頁
「ジュネーヴの学校できまりきった教育の課程を踏んでいるあいだにも、自分の大好きな勉強に関するかぎりは、大いに独習した。私の父は科学的ではなかったので、知識に対する私の学生らしい熱心さに加えて、子どもらしい盲目さで私がもがいているのを、そのままにしていた。新しい先生たちの指導のもとに、私はひどく勤勉に賢者の石とか不老不死の霊薬の研究に入りこんだが、まもなく後者の研究に専念した。富などというものはくだらないものだ。けれども、もしも私が、人体から病気を駆逐して人間を暴力による死以外は不死身にすることができたら、その発見はなにほど光栄なことであろう!」36頁
これは大学に入る前のビクター・フランケンシュタインの回想である。ビクターは錬金術の書物にはまり込み、本の虫になるところであり、この錬金術から科学へと関心が向いていく場面である。ここではビクター・フランケンシュタインの血が熱く、生き生きと輝いている。まるで子供のように、と思ったが、ビクターはまだ十代、本当に子供である。
私、安部火韻もまた小さいころから、空想に耽り、冒険小説やSF小説にはまっていた。そして、それが本格的に探求心が燃え盛っていたのは高校二年の時である。そして、今はまた小説「フランケンシュタイン」とその周辺の研究に没頭している。
その後、フランケンシュタインは怪物を創造し、その怪物に悩まされる。そして、多くの悲劇を経験し、自分自身までも絶命しようとしているまさにそのときに次のように訴えるのだ。
「それはどういうことです? 隊長に何を要求するのかね? それなら君たちは、そんなにやすやすと自分たちの計画をうっちゃるのかね?
君たちはこれを光栄ある遠征だなんて呼びはしなかったかね?
どうしてそれが光栄あるものだったの?
それは、航路が南の海のように坦々として平穏なものだからでなく、危険や恐怖にみちみちているからだったろう。
新しい出来事に出遭うたびに、君たちの剛毅さが呼び出され、君たちの勇気が示されることになるからだった。
危険や死に取り巻かれ、君たちがものともせずにそれに立ち向って打ち勝つからだったね。
このためにそれは、光栄あるものだったし、このためにそれは、名誉な事業だったのですね。
君たちは、このさき、人類の恩人として敬慕され、君たちの名は、人類の名誉と福祉のために大いに死に立ち向った勇敢な人々に属するものとして、崇敬されることになるのですよ。
それなのに今、見たまえ、はじめて危険を想像して、というよりは、いわば自分たちの勇気の最初の大きな恐ろしい試煉にあたって、尻ごみをし、寒さや危険に堪えるだけの力がなかった者として言い伝えられることになるのです。
かわいそうなやつらさ、寒さにかじかんで、暖かい炉辺に帰って行った、とね。
なんだって、こういう準備を必要としたのだろう。君たちの臆病を証明するだけのことなら、隊長を何も引っぱり出して敗北の恥をかかせることもあるまいよ。
さあ。男になるのだ、男以上の者に。目的に向ってぐらぐらしたりせず、岩のようにしっかりしなさい。
この氷は、君たちの不抜の心と同じような材料でできているわけでなく、君たちさえその気になれば、どうにでも変るものだし、君たちに逆らうことができないものですよ。
額に不名誉の烙印を捺して家族たちの所に帰ってはいけません。
戦って征服した英雄、敵に背を見せることを知らぬ英雄として帰るべきです。」
フランケンシュタインは、けだかい意向と英雄主義とにみちたまなざしで、その話に現われたいろいろな表情にたいへんぴったりした声を出しながら、こう話しましたので、水夫たちが感動したのも怪しむに足りません。連中はたがいに眼を見合せて、なんとも答えることができませんでした。北極探検を諦めて帰国しようと持ちかけるウォルトン隊長の部下たちに対し、息も絶え絶えのフランケンシュタインは最後の力を振り絞りこのように情熱的に口を挟んだのである。結局、ビクターは亡くなり、ウォルトンたちは諦めて帰国することになるが、しかし、フランケンシュタインはかの前人未到の領域に踏み入ることで受けた悲劇を経てしても、彼らに冒険の覚悟をしたのなら達成せよと呼びかけたのである。
彼の孤独は志に似たもののあるウォルトン隊長の孤独と重なる部分があり、その一説を抜き出します。
ウォルトン隊長はフランケンシュタインに遭遇する前、姉に宛てた手紙でこう述べている。
姉さん、あなたは、僕をロマンチックだとお考えでしょうね。けれども僕は、友だちのいないのはつらいのです。やさしくてしかも勇気のある、心がひろくて教養のある、僕と同じような趣味を持った人で、僕の計画に賛成したりまたそれを修正したりしてくれる者が、誰ひとり身近にはいないのです。そんな友だちがあれば、あなたの貧弱な弟のあやまちをいろいろ矯してくれるでしょうに。私はあまり実行にはやりすぎ、困難にあたって辛抱がなさすぎます。しかも、自分流に独学したことは、そんなことよりもずっと多きな禍です。
15頁
僕はもう二十八歳ですが、実際には十四歳の学校生徒よりも無学なのです。なるほど僕は、物事をもっと考えもするし、僕の白昼夢はもっと広がりがあってすてきでしょうが、ただそれには(画家たちが言うように)調和が欠けています。そこで僕は、僕をロマンチックだと言って軽蔑しないだけのセンスのある友人と、僕が自分の心を直そうと努力するうえでの十分な愛情が、大いに必要なのです。15頁私、安部火韻は読書会を開いて、その参加者の一人にあまりにも知識偏重だ、そうした研究はたくさんあるだろうが、それは本に書いてあるから、もっと素朴な感想を話し合おうと言われました。しかし、私は生み出された感受性豊かな醜い生き物であるよりかは、神に挑戦し、勝利を、栄光を、未知なる知を、美しさを求めるフランケンシュタインなのです。
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