なぜ哲学をするのか?
ただ知りたいから哲学をするのだろう。
基本的には中島義道が言っていたことを理想としている。中島義道は言う。どうせ死んでしまうのにそれでも知りたいと思う。例えば、子供を亡くした母親がなぜ子供を亡くしたのかを痛烈に知りたいと思うのと同じ。それを知ったところで子供は生き返らないだろうし、一層傷つくだけだ。しかし、彼女はただただ知りたいのだ。
哲学に救いを求めるのは不純であると思う。
しかし、確かに哲学に救いを求めてしまっている自分がいる。
私は考えることで実践からの逃避しているのかもしれない。
しかし、どうにもこうにも実践できないときの逃避というのもある。例えば、自分の死に直面したときにはほとんどの人が何事かを考えるのではないか?
死に直面するときの空白。その空白に哲学が必要なのかどうか。必要な気もするが、必要でない人もいるだろう。
では、哲学することに意味はあるか?
哲学することには全く意味がない。それは哲学以外のこと(ご飯を食べたり、ブランドを買ったり、労働したり、喧嘩したり、遊んだり)に全く意味がないのと同様。
本当はそれは違うと叫びたい。全てのことに意味があると言いたいし、全てのことに意味があると言うこともあるが、それはできない。大した意味ではないから。
意味のあるものという言葉で意味しているものはきっと純粋で完全で絶対的なもので、それを求めているのだから。
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