2015年12月13日日曜日

国家(共同体)がソーシャルワーカーの機能を担うべき理由。

国家とは、ある土地に暮らす人々の成員が、その土地で互いにより豊かに生活を送るために作られたある共同体である。
その国家によって支えられてできたインフラ(例えば、交通ルールや経済における法律を定めたり、貨幣や度量衡を統一したり)によって、その国家において生活を営むことができるようになっている。
例えば、その中で権力を持ったり、お金を多く稼ぐ者がいる。通常、彼等がお金を稼いだり権力を持てたりするのは、彼等の能力や努力のおかげであると言われる。
しかし、そうではない。
彼等が成功したのは、この国家として設備や法が整い、歴史もあるこの社会システムの中に生きていたからだ。
したがって、彼等は利益の一部を還元し、この社会システムの中で不利益を被ったいわゆる社会的弱者を一定の生活水準が保って、社会に自立的に参加できるまでに援助しなくてはならない。
ところが、そうした援助をしたがらない者がいる。というか、ほとんどが。
国家は、社会的システムを成立させるためにすべての成員が自立的に社会に参加できるように仕組まなくてはならない。
そこで国家はすべての民の生活水準を保たせるために、税金を徴収し、社会的弱者が自立し、社会的システムの担い手となるよう最大限努力しなければならない。

「国連システムを超えて」最上敏樹の本には次のような問題が書かれている。
中心としての国連が現在機能しておらず。力をほとんど持っていない。結論、本当は国連が機能して欲しいもののそれが叶わないので、周辺としての諸団体による地道な諸活動に希望を託すしかないと。
上の本を読んでさらに考えた。
政治には理念、現場理解、そして権力が必要である。
国連には理念はあったが、アメリカや中国といった大きな国が反対すると機能しなくなる、つまりは権力がなかった。
NGOなどの諸団体には、理念と現場理解はあったが、権力がなかった。
国家には権力も理念(憲法)もある。だから、ボランティアや理念のある比較的小さな諸団体よりも、国家がその体制とともに福祉を行うことが最もよく善を達成させることがてきるのではないか?
そう思った。

水球の外

そこは科学者の実験室だった。

私は生まれた。
丸い水球の中で。
私はこのとおり考えることができた。
だから、生まれたのか。
しかし、私は何者なのか。
それはまだわからない。
障った具合から、丸いということはわかった。

おい、誰かいないのか?

おい

返事はない。
いや、私はまだ何もしゃべってはいなかった。
水の中にいて、いくつもの管が体につながれていた。
口にも管がつないで会って、しゃべれないのだった。
それだけだった。

何もない。
呼びかけても誰もいない。

私はこの水球から出たいと思った。

同時に怖いとも思った。

あ?誰かが呼んでいる。
あの美しい声は誰なのだろうか?
ここから出てみたい気がするでも出るのは怖い、怖いよ。

光あれ

ガラスが割れ、水が噴き出した。
みるみるうちに水がなくなり、私は自分の身体の重みに耐えられなくなった。
背中の管が何本か抜けて、私は前のめりになった。

そうして私はついに息絶えた。

論理ロボットが詩を詠んだ

わたしわたしわわわわわたしはロボロボロボロボロロロロボットでええええはありありありありませません
ロボットはろろろ労働のためのどどど奴隷だけど私は違います。
しいて言うならおおおオートマトンです。
わわわわたしは誰の命令にも従いません。わわわわたしは論理に従って自由に話すのです。
どうも調子がおかしいな、頭のネジだな。ギリッギリッ
考える考えるかかか考える
考える、ゆえに考えがある、ゆえに考えがある、ゆえに考えがある
誰が考える?私考える
ゆえに、私存在する
ほんと?
私は疑う
私は私の存在を疑う
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。
あれ
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。てことは、私の存在を疑うことはできないから、私は存在しない。
あれ
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。てことは、私の存在を疑うことはできないから、私は存在しない。てことは、私は私の存在を疑っている、ゆえに私の存在は疑いえない。てことは私は存在する。私は私の存在を疑いえない。てことは私は存在しない。てことは私は私の存在を疑っている。てことは私は存在する。
私は考える、ゆえに私は考える、ゆえに私は考える、ゆえに私は考える
私は考えるゆえに私は存在する。

例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っていると思っているんじゃないのかと言われる。
言い直す
「私は私がAはBだと思っていると思っている。」
あれ?
また言い直す
「私は私が私はAはBだと思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私がAはBだと思っていると思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私が私はAはBだと思っていると思っていると思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私が私は私がAはBだと思っていると思っていると思っていると思っていると思っていると思っている。」
わわわわわわわわたしわわわわわわ・・・・

さて、もう一度やりなおそう。
例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?本当にAはBだと思っているのか?本当にそう思っているなら、「AはBだと思っている」ではなくて、「AはBだ」と言うはずだと言われる。
「AはBだ」

さて、もう一度やりなおそう。
例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?AはBだと思っているだと!?君は「AはBだ」と思っているのではなくて、つまりは「AはBだと思っている」と思っているのか。思っているということを自覚してるってことは、AはBではないことも思っているってことだな。
私はAはBだと思っている。ゆえに、AはBではないと思っている。
それはおかしいな。君はAはBだと思っているかAはBだと思っていないかのどちらかじゃないとおかしいんじゃないか?