「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
2013年4月7日日曜日
孤独感と客観視
対象化するとは、ある物事か何かを自分から突き放して見ること。自分とは独立したものとして見る、つまり客観視しようとすること。もちろん人は完全に客観視することはできない。そこには常に主観がつきまとう。私自身の感情や私自身の身体や私自身の考え価値観世界観といったものがつきまとって、自分から完全に独立した何かとして見ることはできないのである。
ところが問題は完全なる客観視ではなく、客観視の試みである。客観視しようとすること、つまり対象化することによって人はようやく自分と対象との距離を感じることができる。これはある種の空間的なイメージであるが、この距離感こそが孤独の元凶かもしれないと思う。
自分から独立しているもの、自分とは異質なもの、どうしても分からないもの。人間は常にこうしたものに晒されている。 そういうものを感じることができる。そうしたものの中でも最も感じやすい異質なものは同種的なのに異質なものである。人間にとっては他人であろう。同種だからこそ違いが分かりやすく、その距離感を感じれる。だからこそ、だれかがいるからこそ孤独なのだと言える。
2013年4月5日金曜日
無数の道
見よ!我々の前に立ちはだかるものを!
今、あらゆる価値は目的を失った。
我々はさまよっている。カインのように!
我々は道無き道を歩き出さなくてはならない/
私は、いつも立ち止まる。だが、立ち止まるときにこそ多いに進んでいるときなのだ。
常に二つの道があるからだ。
道はそこにないわけではない。
あるのだ。確かに!しかし注意深く見よ!道は隠されているからだ!
常に私の知らない道を探すのだ。迷え、迷え、子羊達!
だが、誰にも助けを請うな。自分で決めるのだ!
生きる目的とは何か?一つの価値である。では価値とは何か?価値とは言葉である。では言葉はどこから来たのだ。言葉は初めからそこに存在しなかった。それは人が作ったものだ。
そして、それに気づいたとき、私は目の前に無限の道が並んでいることを知った。それゆえ、私は未だ一歩も踏み出すことができないでいる。
ニーチェは新たな価値を造りだし、その道を示した。
しかし、その道も無数にある道の一つにすぎない。
私はその中から一つの道を選び出すことができない。
なぜなら、優劣をつけることができないからだ。それはなぜか?
なぜなら、道そのものが一つの価値であるからだ。
見よ!我々の前に立ちはだかるものを!
探すのだ!あるのかどうかさえ分からないおまえの道を!
ここに自由は誕生した!血を求め、鎖をひきずって!
道はそこにあるのか?道は歩むためにあるのではないか?
そうだ!道は我々が歩むためにあるのだ!
だがしかし、道を選ぶことで歩んでいると思ってはならない!
悩み迷うことそれこそが新しい道を造りだし歩むことなのだ!