「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがあるよね」という言葉に違和感を覚える。
みんなって誰なんだ。「みんな変」という時の変はみんなに共通なのか、と。
みんなではなく、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・としか言えないのではないか。
もちろん変であると言う言葉をみんなを主語としてつけても差し支えないし、、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・→「みんな変だ」としても論理的、文法的にはよいだろうが。
注意:ここでは「この人」の多様なあり方については考えない。
注意:「みんな変である」という命題はもちろん経験的な憶測に過ぎない。
「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う言葉は事実であるかどうかということを問題にしたいのではない。
私は「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う人はそれを言った後にさまざまな人々のさまざまな変さや異なる性質を度外視して「変」という言葉で一義にしてしまうのである。
自分と他人がどれだけ違っているのか、それをよく見極めることこそが私は重要だと考える。
そして「私」と「君」との関係性こそが道徳を形成していくのではないかと考えている。
ここでは理念としての道徳や正義は度外視する。そんなものはあってもなくても実践においては無意味である。
それはともかく、「みんな〜」ではなく、「その人の固有性をよく見よ!」と言いたい。