襞(ひだ)といえば、ライプニッツの哲学がある。ドゥルーズもライプニッツから襞の概念を持ってきているようにも思われる。ドゥルーズの著作に「襞: ライプニッツとバロック」がある。
襞とは何だろうか?
ライプニッツはこの世界はモナド(単一のもの)が集まってできていると考えていた。モナドロジーである。モナドは単一であるが、多を含んでいる。もっと言えば、全世界や神すら含んでいるらしい。(含むという表現ではなく、映し出すという表現のほうが適切なのかもしれない。)
「すべての魂はこの世界を映し出す永遠の鏡なのです。これらの鏡は普遍的でさえあり、それぞれの魂は宇宙全部を厳密に表現しています。なぜなら、世界には、他の一切を感知しないようなものはなく、ただ隔たりに応じて、その結果がより目立たなくなるだけだからです。けれども、あらゆる魂のなかで最も気高い魂とは、永遠真理を知解できる魂であり、混濁した仕方だけで宇宙を表現するのではなく、さらに宇宙を知解し、至高の実体の見事さと偉大さについて判明な観念をもちうる魂です。それは宇宙全体を映す鏡であるばかりでなく、この宇宙のなかの最上のもの、すなわち神そのものを映す鏡でもあるのです。」ライプニッツ書簡
映しだされたものは表象という。単一でありながら、すべてを映し出す。しかし、我々はあらゆるすべてを知っているとは到底思えない。すべてを含んでいるにも関わらず、なぜ我々はそれを知らないのか?
ライプニッツはあるときは「波を観る」という譬えで説明する。我々は波の全体を見て、波だとわかっても、波の細部を明確に認識しているわけではない。それらが私の瞳に映っているにも関わらず、だ。つまり、見えていても判明でないことがありうると。
また、別の時には「襞」を用いて説明する。モナドにおいて世界のすべてが表象されているのだが、それらのほとんどは無限に折り畳まれ襞状になっている。それゆえ、折り畳まれた部分は開いていかなければ意識できないのだ、と。