2025年6月29日日曜日

ライプニッツの襞とは何か?


襞(ひだ)といえば、ライプニッツの哲学がある。ドゥルーズもライプニッツから襞の概念を持ってきているようにも思われる。ドゥルーズの著作に「襞: ライプニッツとバロック」がある。

襞とは何だろうか?

ライプニッツはこの世界はモナド(単一のもの)が集まってできていると考えていた。モナドロジーである。モナドは単一であるが、多を含んでいる。もっと言えば、全世界や神すら含んでいるらしい。(含むという表現ではなく、映し出すという表現のほうが適切なのかもしれない。)


「すべての魂はこの世界を映し出す永遠の鏡なのです。これらの鏡は普遍的でさえあり、それぞれの魂は宇宙全部を厳密に表現しています。なぜなら、世界には、他の一切を感知しないようなものはなく、ただ隔たりに応じて、その結果がより目立たなくなるだけだからです。けれども、あらゆる魂のなかで最も気高い魂とは、永遠真理を知解できる魂であり、混濁した仕方だけで宇宙を表現するのではなく、さらに宇宙を知解し、至高の実体の見事さと偉大さについて判明な観念をもちうる魂です。それは宇宙全体を映す鏡であるばかりでなく、この宇宙のなかの最上のもの、すなわち神そのものを映す鏡でもあるのです。」ライプニッツ書簡


映しだされたものは表象という。単一でありながら、すべてを映し出す。しかし、我々はあらゆるすべてを知っているとは到底思えない。すべてを含んでいるにも関わらず、なぜ我々はそれを知らないのか?

ライプニッツはあるときは「波を観る」という譬えで説明する。我々は波の全体を見て、波だとわかっても、波の細部を明確に認識しているわけではない。それらが私の瞳に映っているにも関わらず、だ。つまり、見えていても判明でないことがありうると。

また、別の時には「襞」を用いて説明する。モナドにおいて世界のすべてが表象されているのだが、それらのほとんどは無限に折り畳まれ襞状になっている。それゆえ、折り畳まれた部分は開いていかなければ意識できないのだ、と。

2025年6月24日火曜日

フィフス・エレメントとは何か?

 フィフス・エレメントという映画がある。




1997年にリュックベッソンが監督した未来のSFものの映画である。結構、変な映画で、コメディ的な要素も多い。


そもそもフィフス・エレメントとは何だろうか?

フィフス・エレメントとは、英語で第五の元素(要素)という意味である。特に日本ではあまり馴染みがないかもしれない。

第五の元素を考える前には、まずは四つの元素から考える必要がある。映画でも登場した四つの石に対応している地水風火である。この考えは今ではトランプやタロット、星占いにも残っている。


火は、直感、♠️、ソード🗡️。

風は、知性、♣️、ワンド🪵。

水は、感情、♥️、カップ🍷。

地は、感覚、♦️、ペンタクル💰。

というように対応している。


この世界は四つの元素でできているという考え方は、東洋や中東も含めいろんなところにあるが、西洋では古代ギリシャの哲学者エンペドクレスに遡る。


エンペドクレスの考えはそのままプラトン、アリストテレスに引き継がれるが、アリストテレスは、四つの元素にもうひとつ付け加える。

それが第五の元素アイテール(英語でエーテル)である。

地水風火は地上において作用するもので基本的には一時的に直線的な動きをすると考えられているが、アイテールは地上ではなく、宇宙で作用し、永遠に円環する動きをすると考えられている。

まあ、アリストテレスは天体の動きから、このようなことを考えたのだから。


ちなみに、科学においてもアインシュタインの時代までエーテル(アイテールはギリシャ語)の考えは残り、宇宙を満たし、光を伝える媒体であると考えられてきた。しかし、宇宙科学の発達により、宇宙には何も満たされていない真空であることがわかり、エーテルは否定された。(1887年のマイケルソンとモーリーのエーテルの風の観測実験から、1905年にエーテルなしにも時空間を相対化することで整合的に考えることができた特殊相対性理論に至るまで)


映画では第五の要素は愛とされるが、それはおそらくキリスト教的なものが結びつけられたのだろうと考えられる。


キリスト教では、神の愛が中心的に考えられる。

神は愛そのものであり、そのまま、天上の宇宙的なものに結び付けられる。

アメリカでは、神=宇宙人説というものもあるようだ。そういうわけで、ミラショヴォビッチが演じる赤髪の女の子は神の子的な立ち位置にある。実際、世界を救いますし。

エーテルは物質としては否定されたが、この映画では精神的なものとして復活させる、そんな感じを受ける。

ただ愛の描き方が俗的で、性愛だったのが気になるが。全体としてはコメディ感がある映画なので、そんな真面目に受け取らないのが良いのだろうw

2025年6月8日日曜日

日常に侵入するグロい芸術作品









 グロテスクなものが芸術作品とされることは、今までにもあった。というか、そういうものはむしろ多くありふれている。しかし、今回これが炎上しているらしいのはそれが刺身などに使われる醤油皿だったからではないだろうか。それまでは、グロテスクなものが芸術品になったとしても、それは美術館における展示という、いわばお客さんにとっての非日常的な空間、自分たちから離れた安全な場所にあるので、「こういう芸術ね。」ということで納得してきたのだろう。あるいは、グロテスクなものも、またお祭りや宗教的な儀式といった非日常的な空間においてのみ許されてきた部分があるだろう。しかし、これが醤油皿になったことによって、自分たちのとても近い場所、日常的なものへとグロテスクなものが侵犯する。ゴヤのグロテスクで残酷な絵を購入したとしても、食卓に飾ろうと言う人はあまりいないだろう。しかしながら、アートは、そもそも我々の日常へ侵犯することを試みてきた。そういう側面もある。そのため、時に過激であるとして、物議を醸すこともあるし、物議を醸すことを目的としている場合すらもある。今回この醤油皿が新しいのは、それが我々にとって特に近い、リアルな我々の食事を想起するからだろう。