2015年8月26日水曜日

私の恋愛観

恋と愛と友情との違いをいかに区別するか。

まず、愛と友情とは理性的な部分がいくらか見られます。愛する人と朋友は「eye」で相手をしっかり見て「共」に生きるからです。
しかし、恋は故意ではありえず、矛盾します。何かを意図するもの、理性的なものではないのです。
ヨーロッパでもamor(アモル、恋)とはamoral(無道徳、超道徳)なのです。日本でも、男女関係において親密な仲(=恋仲)を古語で「わりない仲」と言いますが、「わりなし」とは「理(ことわり)+なし」=理屈や分別を超えているということを意味するのです。
恋は異質な他者への切望です。決して得られそうもない真なる知への切望、つまり、哲学も同じです。

一方、友情は同門、同志の者とのある相互承認関係です。
友情は同じ門、同じ志の者とのある相互承認関係です。ただし、その承認がむしろ相手への甘えとなると互いを腐らせる馴れ合いとなり、その承認そのものが崩れると互いの生存を脅かす敵と化します。
友情を保つことは意外にも難し

く、適切な距離と互いの敬意を保つ必要があります。
ニーチェに言わせれば、「人は己の友をも敵として敬うことができなければならぬ」のである。

最後に愛情とは何か。これが一番難しい。
愛には、プラトンに始まるプラトニックな愛と、ロマンティックな愛、そして、エロティックな愛というものがあると言われます。
私は、どれが欠けても足りなくなり、愛、恋といえなくなってしまうと思います。というのは愛にも恋にもその側面があるからです。
しかし、この三つに決定的に欠けているものがあります。それは、その愛は、愛される他人の性質ではなく、愛される他人そのものを愛するのです。
しかし、現実には、そのものを愛すると言うことは、自分の愛がほんものなのかどうかを知ることは不可能だし、その意味を確定しようと考察するどの哲学者も失敗しており、存在するとは思われません。
以上は思弁的な私の恋愛観です。ただ、思弁的なので理想論かもしれません。経験的な恋愛観は別にあります。

私自身の経験的恋愛観
1.自分自身は当てにならない。
私の心は秋の空。はじめはその人に対する小さな気がかり。そのなんでもないような気がかりを大事にしていたら、それはだんだん膨らんで胸いっぱいいっぱいになっていた。そうして、それをそのままにして三ヶ月から半年ほど置いたら、いつのまにかまた、それはしゅくしゅくと萎んでいく。小学校のときには、学年があがる度に好きな人が変わってしまった。そのことに気がついてから、私は私自身のことが信じれなくなった。私は私自身ではなく、他人の心を信じようと思っていた。自分のことを好きになってくれる人を好きになろうと思った。
それはできた。そう、誰でも好きになることができたのだ。それは最初の気がかりを育てるか、捨てるかを選ぶだけでよい。私は誰を好きになるかを自分で選べるということだ。この自由ゆえに、私はさらに自分が分からなくなった。いったい誰を好きになったらいいのか。でも、寂しさゆえに、誰かを好きになりたいと思っていた。そうして、なんとなく自分のことを好きそうな人を好きになろうと思った。それは恋ではない。ましてや愛ではないと思った。
2.すべての人は美しい。
最初の小さな気がかり。それを育てると暴走し始め、制御できなくなる。最初は何らかの好感である。ちょっと笑顔がかわいかったり、ちょっと言葉遣いが気になったり、気になりはじめると、その人をさりげなく見るときにも、今までと違ったポイントを見るようになる。例えば顔。今までは、ブスだと思っていたその顔の中にも、ある美しさを見出すことができる。
どんな顔もその全体から秩序だったあるパターンの関係を見出すことができれば、美しさを見出すことができるのだ。そうして私はいかなるものにも美を見出すことができる。いかなるものにも美は潜んでいることに気がついた。そうしてだから、様々な人が様々な人を好きになることができるのだとわかった。しかし、世の中には多くの人が美しいと認めるものも存在する。これはなぜか。これはただその人の中の美は発見されやすいというだけの話だと思った。
愛は盲目ではなく、愛は潜んでいた美を発見させるのだ。
3.好きという感情が恋愛を破綻させる。
好きという感情には隙がない。気づいたときには膨らみすぎてもはやぱんぱんである。そんな状態のまま相手に接しても、相手がよほどの心の広さを備えた人でない限り、離れて行ってしまう。想いは重いのだ。その重さを相手に渡そうとしても、相手が拒否するだけである。結局は、通常みんなそんなに求めておらず、ライトな愛がお手ごろなのである。しかし、私はうそをつくのがへたくそである。そのため、自分の重くなった気持ちを相手のことも考えずに、渡そうとしてしまうのだった。だから大抵うまくいかなかった。最初の気持ちはなんとかなれども、一旦好きになりはじめると、制御できないのだった。

タルコフスキー監督の映画「ストーカー」
タルコフスキー監督の映画「ストーカー」

2015年8月24日月曜日

芸術とは精神である。

芸術とは精神である。
したがって、芸術とは言葉である。
しかし、芸術とは人に感覚を与える呪術でもある。
芸術は誰かに向けて創られるわけでも、何かのために作られるわけではなく、それ自体で最上のものを目指す。いわば、それは神に向けて創られる。
したがって、芸術とはわれわれの祈りである。

いまや美しいものはすぐに作れるようになってしまった。Macのフォトショップ、CG、非常に多くのデザイナーたち、映画、アニメ、ポスター、写真・・。
しかし、そもそも美しいものはもともと世界に溢れている、自然として。
現象学、そして受容理論以降、芸術とは形を創るものではなく、形の現れを享受することであると規定された。
受容理論においては、作者中心に考える仕方があまりに一元的で狭いものであり、作品は読者がいかに読みうるかによってようやく規定されるものであると批判された。それは作者の帝国に対し、読者が反逆をするという仕方で書き立てられた。
そうして、さらには作品はそれ自体で読者の読み込みとともに独自の進化を遂げるものであるとされるようになる。
現象学においては、言葉や心や考えに至るまでのすべての事柄はある現れである、つまり、まずもってすべては現象である、と考えるところから始まる。そもそも常にすでに、すべての事柄はある形をもってそのようなものとして(私という受け皿のようなものに向かって)現れているのであるから。
いわゆる芸術とは、ある形を創造し、社会に対し提示することであるが、先ほどの現象学、受容理論から言えば、われわれの出会うあらゆるすべてのものは芸術たりうることになる。
そこでは問題はあらゆるものにそれぞれの芸術性を見出せるかという読者個人の問題なのである。
私はだから、美術館に行くよりも、散歩を好む。散歩のほうがよっぽど芸術を享受できるし、感性も磨かれるからだ。
いまや、あらゆる生活のすべてが芸術である。
しかしながら、されば、制作者は、読者の側に立った何ものかを創ることに意味はあるのだろうか?
されば、いわゆる美術館に置かれる芸術品とは何なのか。
私に言わせれば、それは自己顕示欲の現れである。そうでないなら、なぜ自分で創作し、自分で享受するにとどまればよいのに、わざわざ他人にそれを提示しようとするのだろうか?
「芸術なんて道端に転がっている石ころのようなものだ。」岡本太郎
ただ便器を置いただけの芸術、デュシャンの「泉」はいわゆるそうした芸術品というものの形式を批判した。
美術館やギャラリー、サロンにおいては、名札を貼ってしまえば、どんなものだって便器だって芸術品になる。それが示されたのである。
芸術家は何をすべきなのだろうか。
芸術家には二つの方向性が残されているように感じられる。
1つは、解釈に余地を持たせる作品である。つまり、読者によってしか完成されないものである。それは、しかし、絵画よりか日常のほうに溢れていると思われる。さらば、次第に方向性はなんでもないものへと移行していく。そうして最後には読者に見向きもされなくなるだろう。
もう1つは、分かりやすくおもしろいものを創るという方向である。それは、エンターテイメントと言われる。映画と漫画はまさにわかりやすく、愉しく、欲望を満たせるように意図されできている。そうすると人を魅了するような物語のようなものが大事になってくるわけだ。アートはプレゼンテーションされるわけである。しかし、私はこうした仕方は、読者に媚を売っているようでよいとは思えない。
では、芸術家は何をすべきなのか?
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」において、恋に陥った男は相手に届くわけでもない恋文を書くことに熱中する。
誰かに読んでもらうために書いたのではないもの。
相手に送るわけでもないのに書かれる手紙。
相手はもういないのに綴られるメッセージ。
それこそが本物の芸術制作である。
どういうことか。

字は絵だろ!岡本太郎
絵(イマージュ)は字(シニフィアン)だろ!ラカン
芸術とは精神である。
:絵は人が描くものである。人の精神はシニフィアンの連鎖によって構成された無意識の大海にある。絵は、無意識的であれ、意識的に描いたものであれ、人が書いたものである以上、精神から表出される何かを示さざるをえない。
芸術とは言葉である。
:絵はすでにあるメッセージになってしまっている。モチーフはすでに何かを象徴するものである。芸術がシニフィアンの連鎖によって構成されているなにものかから表出されるものである以上、そこに何らかのメッセージ性が秘められてないことなどありえない。
芸術品はもちろん自由に創られていい。
すべて何かを語りかけている。言語的なものを図像的に伝えること、そのことに意味があるのであって、図像的なものそのものに意味があるのではない。
芸術は創られるものではなく、読者によって発見される自己イメージである。つまりは、人は通常自己イメージに基づいて、あらゆる現象を眺めているのである。それは自己満足の幻想以外のなにものでものない。
しかし、芸術はそれを超えて、自己イメージを破壊し再構築させる可能性を秘めているのである。
芸術とは創造そのものなのである。
拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中)

拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中2)