音楽の美しさというのは何だろう。
音楽の先生は言う
「絶対音感のある自分が正しいんだとG(音階のある音)の音で歌うよりは、互いの音に合わせて相対的な音感で歌ったほうが観客にとってはいいんだよ。」
いつか友達との会話を思い出す。
「美って何だと思います?」
「・・うーん。何らかの心地よさを与えるもの?」
「バランスですよバランス。比率が良いものが美なのですよ。」
彼はピアノを弾くのだった。
べつの友達もやはりピアノを独学で弾くのだが、かれは原音ではなくすべてハ長調に直して弾くのだった。
やはり音楽はバランスのたまものである。
それと違うのは絵画である。絵画は特に現代美術は現在も常に模索している。あるいはロックやポップやヒップホップのミキシングなどの軽音のなかでもインディーズの音楽の中にも実験的な音楽と言えるのかそれとも何かの音の羅列のようなわざと音を外したりする音楽を作ろうとするものがある。
岡本太郎は言う
「だれが何と言おうと、だれがどんな顔をしようと、色にならない色、音にならない音を出すんだ!」
「ゴッホは美しい。しかしけっしてきれいではない。ピカソは美しい。しかしけっしてきれいではない。」
彼の言う美は、友達の言う美とはまったく違っている。
二種類の目的の違う音楽である。(ただし新たなクラシック的美しさを見つけ出すための実験というのはあるが)前者をクラシック的美しさ。後者をカオス的美しさとでも名づけて話を進める。
しかし、カオス的美しさはすぐにクラシック的美しさに還元されてしまう。特にその芸術がどのようなリズム、旋律になっているのかの一定の規則、法則のようなものを示すことによって・・。
(いわゆる感性の学としての)美学や芸術評論の類はこうしたカオス的美しさをクラシック的美しさに変える。
また、人もその音楽のカオス的なリズムを記憶とまでは行かなくても慣れてしまうことによって、クラシック的な美しさに移行してしまうのだ。
だから、カオス的美しさは持続することはできない。すぐに色あせるか、移行してしまう。反対にクラシック的美しさは例えそれが存在したのが一瞬であっても永続することができるのだ。
"Be always searching for new sensations. Beafraid of nothing." -Oscar Wilde(The Picture of Dorian Gray)
注:ここでは世間受けするようなものについては言及しないでおく。
注:もしも、クラシック的美しさ、カオス的美しさよりもいい名称が思い浮かんだら教えていただきたい。