2025年3月24日月曜日

不死者についての試論



ルーシー

私は心を探している。

私は心を探している。

私には心がない。

だから私は悲しむことがない。

私には心がない。

だから私は怒ることがない。

私には心がない。

だから私は愛することがない。

私には心がない。

だから私は恐怖することがない。

私には心がない。

だから私は死ぬことがない。

私には心がない。

だから私は生きることがない。

心が欲しい。

心が欲しい。

心、精神、魂。そう、魂。私には魂がない。魂はどこにあるのか?

恐怖に打ち震えたあなたの心、精神、それはどこにあるのか?

純粋なあなたのその血、そこにあなたの魂が流れているのだ。

その血を私にください。ニヤリ



不死者について語るヴァンヘルシング教授

ヘルシング「どうだね。落ち着いたかね?」 ルーシー「先生、私、死ぬんですか?私、死ぬのが怖いんです」 ヘルシング「大丈夫だ。少なくとも、今、世間で流行っている感染症ではなかった。不安なら、死は存在しないと思ってみるかい?」 ルーシー「死は存在しない?」 ヘルシング「死は存在しない、という思想がある。死はない。「死」というものがあるわけではなく、、生ではない、つまり生の否定、命への否定がなされただけだ。そう言うと言葉遊びのように思われるかもしれないが。は誰も経験したことがないし、それをいよいよ経験するというときには経験する私自身がいなくなってしまうからだ。

その理解しがたさが、死を怖いものにしている。我々が恐れるものは未知なるものなのだ。多くの宗教はこの死の怖さを逆手にとって死後のことについて語ることで信者を獲得してきた。宗教にハマるのは死の怖さゆえだ。

死を恐れるあまり、逆説的に死にたくなる者もいるのだ。宗教にハマるのも無理もない。知らないから怖いのであれば、知ってしまえばよいというものだ。

だが、ことは単純ではない。

he is dead. 「彼は死んでいる」というこの文を考えてみよう。

これを否定すると、he is not dead. 彼は死んでいない。彼と死とが切り離されている。つまり彼は生きている。ということになる。では、単に死んでいないのではなく、死そのものがない。つまり、死そのものを否定しようとするとどうなるのか?

He is Undead!!彼はアンデッド、不死者、ノスフェラトゥである、となる。つまり、ゾンビやヴァンパイアのことである。それは生きているという死の否定ではなく、死の否定を実体化した者、死の否定の存在者なのだ。

我々、人間存在には魂があり、理性があり、愛があると言われている。一方、死を否定してしまったこの存在者には、魂がなく、理性も愛もない、死を否定することで、つまり、死を死に至らしめることで、その者のうちには根源的な死が、つまり、根源的な無が含まれてしまったのだ!そのため、彼らは死をすすり、死を喰らい、死とともにあり、死そのものであるかのようにふるまう。自身の内にある死という空虚を埋めようと、魂のある我々を探し求めるのだ。

だが、彼らは決して満たされることがない。我々の魂を求めるが我々を殺してしまっては魂そのものは得られないのである。そこで彼らは我々を生かしたままに血をすするしかない。「血とは精神である」と言ったものだ、我々の血は精神なのであり、魂の活力なのである。結果として血をすすられすぎてしまったものは死を通して再びアンデッドとなる。アンデッドの感染は次々に起こる。感染を止めるには死を否定した彼らに死を受け入れさせる、つまり、安らかに眠らせてやるほかはあるまい。」


ドラキュラ伯爵の歓迎
「永遠とも言える孤独のうちに世界を見渡し、原罪からも解放され、神にも等しいこの私。
私に死は存在しない。悦ばしいことだ。私は吸血鬼、悪魔、ノスフェラトゥ、アンデッド、不死者だと言われ、死そのものだと忌み嫌われる。それならそれで、死そのものになればこそ死を恐れる必要はない。自分自身なのだから。
私からすれば、むしろおまえたちこそが死に捉われし者。アンデッドのように、何かを求めて彷徨っているにすぎないのだ。何をしても、空虚、つまらない、退屈だ。だから、恋に恋して恋人探し、ありもしない自分を求め自分探し、買いたいものがないのに、ショッピングモールをうろつき、しなくてもいいことをして忙しいフリをし、たまには舞台でも見て、何かに感動して心の空虚さを埋めている。
だが、ごまかすのはやめろ!おまえらはじきに死ぬ。怖くてそのことを直視できないでいるのだ。だが、おまえをまもなく襲う死をおいて他にもっと大事な問題があろうか?
そして、そのおまえらを死から解放することのできる本当の救世主は私なのだ。
これに対し「自分には魂があるが、ヴァンパイアは魂を持たない」そうおまえたちは言う。これも嘘だ。私にもおまえたちにも魂などない。魂があるのは唯一、芸術くらいなものだ。しかし、おまえたちはないものをあると思い込んでいるが、私は魂などないことは知っているのだから、何もないことを自覚できる。とはいえ、おまえたちもなんとなく魂などないことは知っているんじゃないのか?だから、心に空虚さを感じているのではないのか?
おまえたちは決して満たされることはない。決してな。
唯一強かったのは神という妄想だけだ。
神はおまえたちの魂の存在を保証してくれる。
神はおまえたちの死後の幸福を保証してくれる。
神はおまえたちの空虚さを愛で埋めてくれる。
愛する人を失うと、後追いしてしまうと言われる。だが、神を信じる人は別だ。死後を信じ、魂を信じ、愛を、特に神の愛を信じるからである。
この妄想は強すぎる。これを妄信することでおまえたちは死について直視せず、それをごまかしていけるのだ。
ところが、神は死んでしまった。神は殺されたのだ。はるか昔にな。
おまえたちの中にも気づいている者はいるだろう。どんなにすばらしかろうと、死んだ者、神の死骸を信じてそれで心を埋めても、虚しさは増すばかりだ。
そうしてどうなったのか?お前たち自身は前にも増してアンデッド、死に呪われし者のようになったのだ。己の神を求めて死んだように彷徨い続ける醜い姿。どこにもなく、誰でもないものを求めて。
そして、真理を伝えるこの私こそが神を殺した張本人である。新たな神は私だ。私を信じよ。
私は地下と夜の世界にいると思われているが、違う。あまりに深い地下へと下るほど、精神はあまりにも高い天へと登り、あまりにも暗い闇はひるがえって新たな輝かしい光なのだ。明るかろうとも暗かろうとも理解できぬおまえたちの目にはどちらも見えまい。
さあ、死の存在しないすばらしき世界へようこそ。心の渇きに飢えたおまえたちを歓迎しよう。祝福を!」

(※ カントの無限判断のジジェク解説やサルトルの「存在と無」、ニーチェの思想を参考に、ちょっとした台詞を考えてみました。)

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