ルーシー
私は心を探している。
私は心を探している。
私には心がない。
だから私は悲しむことがない。
私には心がない。
だから私は怒ることがない。
私には心がない。
だから私は愛することがない。
私には心がない。
だから私は恐怖することがない。
私には心がない。
だから私は死ぬことがない。
私には心がない。
だから私は生きることがない。
心が欲しい。
心が欲しい。
心、精神、魂。そう、魂。私には魂がない。魂はどこにあるのか?
恐怖に打ち震えたあなたの心、精神、それはどこにあるのか?
純粋なあなたのその血、そこにあなたの魂が流れているのだ。
その血を私にください。ニヤリ
ヘルシング「どうだね。落ち着いたかね?」 ルーシー「先生、私、死ぬんですか?私、死ぬのが怖いんです」 ヘルシング「大丈夫だ。少なくとも、今、世間で流行っている感染症ではなかった。不安なら、死は存在しないと思ってみるかい?」 ルーシー「死は存在しない?」 ヘルシング「死は存在しない、という思想がある。死はない。「死」というものがあるわけではなく、、生ではない、つまり生の否定、命への否定がなされただけだ。そう言うと言葉遊びのように思われるかもしれないが。死は誰も経験したことがないし、それをいよいよ経験するというときには経験する私自身がいなくなってしまうからだ。
その理解しがたさが、死を怖いものにしている。我々が恐れるものは未知なるものなのだ。多くの宗教はこの死の怖さを逆手にとって死後のことについて語ることで信者を獲得してきた。宗教にハマるのは死の怖さゆえだ。
死を恐れるあまり、逆説的に死にたくなる者もいるのだ。宗教にハマるのも無理もない。知らないから怖いのであれば、知ってしまえばよいというものだ。
だが、ことは単純ではない。
he is dead. 「彼は死んでいる」というこの文を考えてみよう。
これを否定すると、he is not dead. 彼は死んでいない。彼と死とが切り離されている。つまり彼は生きている。ということになる。では、単に死んでいないのではなく、死そのものがない。つまり、死そのものを否定しようとするとどうなるのか?
He is Undead!!彼はアンデッド、不死者、ノスフェラトゥである、となる。つまり、ゾンビやヴァンパイアのことである。それは生きているという死の否定ではなく、死の否定を実体化した者、死の否定の存在者なのだ。
我々、人間存在には魂があり、理性があり、愛があると言われている。一方、死を否定してしまったこの存在者には、魂がなく、理性も愛もない、死を否定することで、つまり、死を死に至らしめることで、その者のうちには根源的な死が、つまり、根源的な無が含まれてしまったのだ!そのため、彼らは死をすすり、死を喰らい、死とともにあり、死そのものであるかのようにふるまう。自身の内にある死という空虚を埋めようと、魂のある我々を探し求めるのだ。
だが、彼らは決して満たされることがない。我々の魂を求めるが我々を殺してしまっては魂そのものは得られないのである。そこで彼らは我々を生かしたままに血をすするしかない。「血とは精神である」と言ったものだ、我々の血は精神なのであり、魂の活力なのである。結果として血をすすられすぎてしまったものは死を通して再びアンデッドとなる。アンデッドの感染は次々に起こる。感染を止めるには死を否定した彼らに死を受け入れさせる、つまり、安らかに眠らせてやるほかはあるまい。」
(※ カントの無限判断のジジェク解説やサルトルの「存在と無」、ニーチェの思想を参考に、ちょっとした台詞を考えてみました。)
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