ヘーゲルは、カントだけでなく、スピノザからの系譜をも受け継いでいる。
スピノザの哲学は知っての通り、あらゆるものは神の変容であるという思想である。汎神論
だから、たとえば、「喜びとは小さな完全性からより大きな完全性への移行」であったりする。
すべては神であるがゆえに、いつも真であり完全なのである。
そして、ヘーゲルもまた同じところがある。
例えば、新たに真理を発見するという時、今まで真だったものが真でなくなって、新たな真を見つける、のではなく、真だったものが、より大きな真へ移行するというような形で理解するべきなのではないだろうか。
ヘーゲルはより普遍的な真理へと至る過程も含めて真理と考えてしまうところがあるのだ。
だからこそ『精神現象学』を書いた。
『精神現象学』は精神(自己意識)がさまざまな契機を経ていくところが描かれる。つまり、「これが真理です」と結論がまずあるのではなく、より普遍的なものに至るためのさまざまな過程を描いているのである。
『精神現象学』における序文の最初の文章を読んでみる。
そこにおいては、たとえば主張Aと主張¬A(反A、Aの否定の主張)があるときに、それぞれは互いを否定して、それぞれが自身の正しさを主張して、そこでコミュニケーションが終わりになってしまっていることにヘーゲルは不満を覚えている。
そうではなくて、相手からなんらかの批判がなされる際には、それがより大きな真理へと至るための契機になると考えるように仕向けさせる。
相手がそれを正しいと主張するのは、そこにもなんらかの正しさがあるのだから。
そうして、正と反とは合にいたる道筋を示している。(この言い方はヘーゲル自身がしていないがゆえによく批判されるが)
一方で、ヘーゲル研究の大河内大樹は弁証法についてこう述べている。
「あるものがそれを徹底してやると、反対のものになる」と。
例に挙げて考えてみよう。
ヘーゲルの『小論理学』を読んでみる。
まず純粋な存在を思い浮かべる。
純粋な存在とは、未だ何も規定していない存在。
コップだとか、ペンだとかそうした具体的な存在者ではなく、そこから、具体的な存在者を抜き取って、まだ何も規定されていないもの、存在それ自体、存在それそのもので考えてみる。
そうすると、存在そのものは無規定なので、すでに「無」が入り込んでいる。
そこにヘーゲルは注目する。
存在を徹底すると無になると。
さて、一方で、変化というものを考えてみよう。
つぼみからバラの花が咲く時、つぼみだったものが、つぼみを否定して、バラの花が生まれる時、もっと言えば、つぼみがつぼみでなくなるその瞬間を見てみよう。
つぼみがつぼみでなくなるギリギリの一点はつぼみであったと同時にもはやつぼみではなく、バラの花ではまだないのと同時にバラの花になりつつある。
ここに存在Seinと無Nichtsとが同居しているのを見出して、これを「成」Werdenと名づける。
これは正反合と似ていると感じるのではないだろうか?
また、否定というのはひとつの契機であって、全体として見れば、その契機も「成」においては必要な「真」なのである。
まだ読んではいないが川瀬氏のヘーゲル理解では、流動性がキーワードになっているときくが、私はヘーゲルのこうしたところを連想した。
そしてまた、ヘーゲルには次のような言葉もある。
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig.『法の哲学』
理想が破られたとき、多くの人は「あんなものはただの理想だったんだ。現実を見ろ」と言う。
しかし、ヘーゲルはそうではない。
確かに理想は現実によって否定されるが、それは理想実現に至るための契機に過ぎない。
これは日常で生きていくのにも使える。
何か嫌なことがあった時、否定された時も、これもまたより大きな真理、理想のより実現化可能な方法を探るための契機だと考える。
そんな考え方をヘーゲルは提示してくれているように思う。
否定はそれを徹底すれば肯定であり、真理、理想への前進なのである。
そう考えていくと、ヘーゲル以後、ヘーゲルは否定されたとよく言われるが、ヘーゲルからすればこうだ。
「私を否定せよ。否定されればされるほど、より大きな真理に至れるのだから。」と。笑笑