子も子だが、親も親だし、国も国。
面白くないですか?同語反復(トートロジー)にすぎないのに、それ以上のことを語っていますよね。
子「ゲーム買ってよ、友達みんな買ってたし」
親「うちはうち、よそはよそ。……ちょっと行儀悪くしないで。よそに行ったときに恥ずかしいでしょ」
子「うちはうち、よそはよそ。」
この例はよそとうちとをはっきり区別・分断してしまうことによって、無関係にしてしまう効果が表れている。
「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に」(聖書)も同じだろう。
しかし、「子も子だが、親も親だし、国も国。」では、むしろ、子も親も国もネガティブなものとして同列に置こうとしている。
これらのことがヘーゲル的に考えていくとわかってくる。
「A=A」とか「私は私だ」というのは明晰でわかりやすいがこれだけではなにも言っていない。
私は私であるが、しかし、私は非私(私でないもの)でもある。
どういうことか?
例えば、「私は教師である」と言うが、こどものころから教師だったわけではない。
つまり、その昔においては「私は教師ではない」しかし現在「私は教師である」
A=Aで考えていると、AはAでしかありえないので、私は私でしかありえず、「私は教師だ」ということは常に嘘になる。しかし、そうではない。私は私であると同時に私は私ではないもの、つまり教師でもあるということが可能なのだ。
逆に「私は私だ」と強く主張することで「私は私ではないそれ以外のすべてのもの、教師だとか」を否定することができる。
トートロジーは単に繰り返すだけでなく、繰り返すことによって強調されるのである。
「子も子だが、親も親だし、国も国。」の場合には、子と親と国とをネガティブなものとして同列に置いているが、その場合には、必ずポジティブなものが対立されているはずだろう。
それこそが「私(たち)こそは私(たち)だ」であろう。
要するに、子とか親とか国とかを私とは関係のない第三者的なものとして規定してしまうことによって、非難しているのである。
言語というものはとかくいろんなものを省略し、隠しているものなのである。
だからこそ、逆に露わにすることもできるのであるが。
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